<松前城>
テント泊は落ち着く。
5:00に起きて、テントをそそくさと撤収。件の軽バンのキャンパー氏に昨夜のお礼を言ってから松前市内をポタリング。
ところで、今回もリアに75リットルの大型パニアバッグを装備。
これが、なかなかのスグレモノなので毎年使っている。以前は、昔風のホロの4サイドバッグをつけていたが、4サイドでもせいぜい収納できるのは全部で50リットルくらい。
それに比べれば、リアだけで75リットル収容できるオーストリッチ製の特大パニアの格納性能は高い。内側には雨よけのシートもあり、防水性能にも優れている。
後方のポケットの使い勝手が以外にいい。北海道ではゴミは、基本、自分で持ち帰って自分で処理する。そのゴミを一時的にプラスチックバッグにくるんでしまって置いたり、飲みかけのドリンクなどを格納しておくなど、思いのほか多様な用途に使えるのだ。
でも、リアが重くなり、フロントが軽くなるのはしょうがない。でもリアにテント、シュラフ、火器、食料、衣類のすべてをコンパクトに収納できるということは、リアルな用途で非常に優る。
だから、リア重は、リア充なのだ(笑)
<松前神社>
約540年前アイヌのコシャマイン一族が反日蜂起をして自治・独立を保とうとした矢先、武田信広がこれを力ずくで平定したそうだ。
その武勲によって豊臣秀吉から下付された桐の彫刻、太刀などが保管されているという。松前神社は蝦夷地支配の暗黙的なシンボルの影がつきまとっているような印象を覚える。
昨年15年ぶりに新調したゴアテックスの雨具をパニアバッグの上に括りつける。
サドルは13年間乗り続けているブルプロの大銅鋲。
この角度から見上げるランドナーもいい。
前線の影響で、曇っては、ちょっと晴れ、そして急にザーッと雨が降るという落ち着かない天気のなか、ゴアの雨具は、精神衛生にもよい。
曇りがちな天気だが、それもまたよし。江差までの海岸線に沿って松前国道(追分ソーランライン)は北へと向かう。北海道とはいえ、どこか東北地方の気配がそこかしこに漂う。オホーツクや天塩あたりの日本海側とは、また異なった趣に満ちている。
とまれ、車の通行が極端に少なく、じつに快適な走りである。
<開陽丸>
幕末の歴史をテクノロジーの視点で俯瞰することに、数年まえから興味を温めている。アラブ・イスラームの遺産を継承した『17世紀科学革命』が西洋に勃興して、ヨーロッパの科学技術がその他の世界の科学技術を圧倒するようになった。
戦艦は、圧倒的な技術の象徴で、白人(ヨーロッパ民族)の優秀性を示すとともに、非白人から見れば羨望の的。
だから、欧州勢力に大金を払って、徳川幕府や明治新政府は西洋式の軍艦と操艦術の移植、体得に余念がなかった。
慶応4年(1868年)旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍した。それに合わせて、開陽丸は箱館を出港して江差沖へ向かった。江差沖に到着すると、松前兵はすでにもぬけの殻で撤退していた。榎本武揚はまんまと江差を無血占領することとなる。
ところが、天候が急変し、開陽丸は、土地特有の風浪(地元ではタバ風というそうな)に流されて座礁、沈没してしまった。万事休す。兵站の軽視、作戦行動と作戦行動の合間の停泊オペレーション・マネジメントの欠如は、後の戦艦三笠の沈没に繋がっているような気がしてならない。。
もっと周到に天候を予測し、リスクマネジメントを徹底していたら、もう少しマシな「蝦夷共和国」が成立していたのかも知れない?
はらも減ったので、ニシン丼を食べる。美味なり。
<姥神大神宮>
神社でいただいたいわれ書によると、「江差に住んでいた老夫婦が食べるものがなく困っていると、神のお告げがあった。これに従って舟楫で海をかき回すと、白波が盛り上がってニシンの群来を得た。老翁を祀ったのが鴎島(神威尻)の恵比須堂で、老婆を祀ったのが姥神大神宮であるとする」そうな。
老夫婦がアイヌだったという説も根強い。真相はわからないが、多分、アイヌの説話、伝承が神社信仰と集合したのではないか?いずれにせよ、ニシン漁や檜などの交易で富が集中した江差の為政者は、統治のひとつの精神的象徴として、このカミ様を持ちだしたという側面も否定できないだろう。
この神社の際立った特徴は、おまつりするカミサマが、上記の説話にのみ由来し、出雲、大和系など本州古来のカミでもなく、実在の人物でもない点だ。無節操といってしまえばそれまでだが、よく言ってもアニミズム的融通無碍か。
そしてその姥神様をお祭りする姥神大神宮渡御祭は過疎の影響で衰微しているとはいえ、今尚、隆盛を維持している。
平田内のキャンプ場。
なんとキャンプ料金1000円もとられた!ふざけるな。
走行距離:100km
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