よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

バランスをいかにとるか?

2007年07月01日 | ビジネス&社会起業
「ITベンチャー経営者や従業員には、お金の虜のような人が多すぎるね」
「一生懸命働きながらも、お金の虜になっちゃいけないね」
「経営や働き方にも、精神的な背骨が必要じゃないのか」
「カネと精神と働き方。このバランスをとりたいね」

知人と雑談中、こんな話になった。

「カネと精神と働き方のバランスやいかに!?」
こんなことを言うと、「なに、それ~?」といわれそうだが、これらのバランスが崩れやすい(崩れている)企業社会にとって、けっこう重要なテーマだ。

この文脈の中で避けて通れないのは、なんと言ってもマックス・ウェーバーだ。彼の最も著名な業績は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905) だろう。ウェーバーは経営と精神の関係を、社会科学的に論ずる。(と、言うか、彼の論考によって社会科学の礎が創られた)この本でウェーバーは、生産活動には一生懸命に励みながら、世俗的な富の追求と過剰な消費は慎むべきである、といった一見、資本主義に反するようなピューリタンの行動様式(エートス)こそが、実はその富の蓄積の推進力となり、ひいては近代資本主義の基礎となりえたと論じる。このように、ウェーバーは、プロテスタントに共有された行動的禁欲(アクティーフ・アスケーゼ)こそが、キャピタリズムの精神なのだと喝破する。

行動的禁欲?簡単に言えば、勤勉。ちょっと難しく言えば、労働を崇高な目的の手段ととらえる精神。このようなことを論ずる人は日本の文壇にもいる(いた)。

かって山本七平は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を下敷きにして、ピューリタニズムと西洋近代資本主義の関係を、16世紀に活躍した禅僧・鈴木正三の思想と日本近代資本主義の関係に対比させて、バブリーになりつつあった日本型資本主義の源流をさぐり、警鐘を鳴らした。

鈴木正三は言う、「農業、即仏行なり」と。山本は、敷衍して「労働、即仏行なり」と。山本の慧眼(一部に山本日本学とも呼ばれる)は、この鈴木正三の命題をしかととらえ、はたらくこと自体が、精神を高め、自己救済に直結する(させる)という考え方が日本近代資本主義の精神である(でなければならない)とする。この論を継承した小室直樹は、バブル崩壊による日本経済の破綻を1992年の時点で予見し、最大の理由を、この考え方の欠落に求めた。「日本資本主義崩壊の論理」

カネのためだけに経営することは健全な資本主義を窒息死させる。
カネだけを求める従業員は疲弊し生産性を低下させる。
カネのみを求める社会は崩壊する。

ひるがえって、

かけがえのない自分の役割を果たすことが、自己実現につながる。
役割を一所懸命に果たすことが、自分を助けることになる。
仕事を果たすことが修行でさえある。

はたらくことの意味を見つけ、みずから高めてゆく。
はたらくことの精神的な目的を見つけ出す。
はたらくことのありがたさを共有できる仕組みをつくる。
はたらくことによって大いなる内面的な充実感、達成感、フロー経験を得る。

どうやら、カネと精神と働きかたの関係から、いったん、カネの呪縛を横に置いておいて、真正面から精神と働き方の関係を見つめなおすことが必要だ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿