私たちは「月夜野百景」https://www.tsukiyono100.com などの活動で、地域固有の「ものがたり」が生まれ育つ環境づくりを目指していますが、ここでいう「物語」には、3つの顔があります。
第一の顔は、文字通り漢字で表記された「物語」です。
これは通常の「ドラマ」「文学作品」「情景描写」などに描かれた世界です。
私たちは、月夜野で生まれ育った物語がどのようなものなのか、この地に眠る物語の発掘や、月夜野という地名、土地柄が導き出してきた過去の「物語」の蒐集などから初めてみました。
月夜野に関わる三十六歌仙の二人 〜凡河内躬恒と源順〜
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70
そしてこの土地に関連付けられる歴史上の文学以外にも、広く短歌・俳句から始まり、川柳はもとより江戸端歌、童謡など様々なところに残っている名文を蒐集し始めています。
「月夜のものがたり」
http://tsukiyono.blog.jp/archives/cat_1151346.html
ところがこうした物語が現代では、知識や教養にはなっても、それだけでは現代の自分たちの暮らしの中に何かストンと落ちない場合が多いと感じられ、それは当初から予想したことではありながらも、決して後回しにはできない課題であると思い始めました。
その原因の一つは、現代人は「世間」の物語は語れても「自分」の物語を語ることがとても苦手なひとが多いということです。
このことは、以下のような例に見られますが、これ決して特殊な人物像ではなく、現代人の姿を深く投影しています。
「いい物をじっくり選んで買う。そこに個性が出ると思うんですよ。他人が同じ物を持っていても気にしませんよ。そりゃ、中には流行で買うやつもいるかもしれませんけど、僕の場合、自分のポリシーがありますからね。まあ、安月給なわけで・・・・。そうですよ、僕たち働いた分の半分ももらってない感じですからね。自分を殺して殺して安月給。なさけないですよ、っていうのはマア冗談で、本当は全然気にしてませんけど。とにかく、安月給叩いてけっこう高いやつ買うんだから、ポリシーなくっちゃ駄目なんです。」
大平健『豊かさの精神病理』岩波新書
つまり、モノを選ぶポリシーの中にこそ、自らのアイデンティティーがあるのだと。
それは、モノを通じてしか自己を語り表現をすることができなくなってしまった人間像です。
ポリシーのあるなしは、言われてみればよく聞く言葉です。
でも、これら多くの「ポリシー」も、「モノ」の選択・購入の範囲内でしか語られていません。
一見若者にこうしたことが顕著に見られるようにも思えますが、年配の人たちの中にも、自分を語れないこの若者と同じ人たちは少なからずいます。
それは、学歴、肩書き、人事や資格、あるいは所得の大小などばかりにこだわる人たちです。
またこんな例もありました。
地域の歴史の掘り起こし作業で、戦争体験の聞き書きをしていた時に、意外と戦地の全体の話は語ってもらえても、肝心なそのひと個人の体験部分は、なかなか語ってもらえなかったのです。
確かにとてもツライ体験、人には話せないような体験をしているからこそとも思えますが、まさにその部分こそが、で、その背負ってる苦悩の姿も、子や孫たちにどう伝えるのか、あるいはどうしても伝えられないのか、生きた証人の一番大事な部分なのですが、この人たちも、また自分を語れない人びとです。
さらに、次のような視点も〈モノ〉がたりに含まれます。
私たちのまちには、これといった基幹産業や目立った観光資源もないからといって、環境破壊リスクの高いおまけ付録のつく企業誘致に依存したり、一発ヒット狙いで、大河ドラマブームにあやかったり、世界遺産登録などの看板頼みにしたがる発想です。
どれも必ずしも全てが悪いことではありませんが、自分たち自身で地域に根付いた豊かな財産を守り育てあげる手間を抜きに、よそから安易に何かを取り込んだり、買ってきたモノだけでの一発逆転に頼る世界です。
確かに各分野で活躍されているプロや有名人の力、権威づけがされる既存のシステムに頼るのも、決して間違ったこととは言えません。
しかし、そこにはどうしても自分たちの「ものがたり」を生み育てる努力を省略してしまっている部分があることを否めません。
これらも含めた人たちが、現代的な第二のタイプの〈モノ〉がたりの世界を担っています。
世界中が消費社会にどっぷりと浸かってしまった現代で、日常のこうした感覚からの脱却の意味を伝えることは、かなり難しく感じられるものです。
したがって、現代の圧倒的部分を占めるこうした〈モノ〉がたりの世界から脱するには、文学的能力云々ではなく、私たちの暮らし方、働き方から見つめ直していかなければなりません。
そして、そうした自らの物語を発見し創造する世界として第三の物語、ひらがなで表記した生(ナマ)の〈ものがたり〉を発見し、創造していかなければなりません。
もちろん、このナマの〈ものがたり〉は、日々の暮らしの中で生まれる個人的体験や地域固有のものであるだけに、そのままでは必ずしも優れた〈物語〉として文学や商品になるわけではありません。
でも、その「ナマ」であることは、必ずしも「未熟」ということにはなりません。
以前このブログで
「うた」や「ものがたり」が「文学」になってしまう時
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/b63314289855bd8c7d545558fbfd9a38
作品になったものよりも、暮らしの中で生きた作業歌、労働歌として歌われているもの、母と子どもの関係のような絶対的信頼関係のもとで語られる「読み聞かせ」などのほうが、むしろ実態としては価値が高い場合すらあるということを書きました。
だからこそ、ここからが大事なのですが、プロのデザイナーやコピーライターにお任せしてかっこいい文句を考えてもらうのではなく、さらには、識者会議などで簡単なアンケートだけを頼りにその場でひねり出すものでもなく、住民の間で日常的に語られる環境の中から、時間をかけて積み重ねて生れ出るようなものにしなければならないはずです。
以下に、いま私たちが提案していることで直面している問題をひとつ紹介させていただきます。
こうした「ここはカミの依り代 住むひと、来るひと、みなカミの里」といったキャッチコピーも、私たちが勝手に始めると、すぐに地域を代表するような表現を勝手に決めて使用することへの危惧がどこかの関係スジから言われたりします。
また、きちんとした手順を踏まないと「良い」モノでも後で使えなくなることがあるとも警告されたりもします。
それは確かにそうした場合があると私も思います。
確かに「公」=「行政」のお墨付きを得たモノでないと、地域で公認されることは難しい場合があります。
ところが、その肝心な「公」が、どれだけ住民に開かれ根付いたプロセスでものごとが決定されるかというと、どちらかというと「深く根付く」ことよりも「お墨付き」であるための手続きの方が重要である場合がほとんどです。
私たちが「地域づくり」として考えるのは、結果として「お墨付き」がつく分には良いことですが、地域の人びとの暮らしの中でより広く、より深く根付く環境づくりに軸足を置いてるので、たくさんの切り込み口で地域に眠っている「ものがたり」 から発掘、蒐集し、表現し、伝えていく運動を、時間をかけて行うことこそを大切にしたいと考えています。
この私たちが大切にしているナマの〈ものがたり〉は、公認、非公認を問わず、時間をかけて積み重ねることにこそ意義のあるものです。
決してアンケート結果の多数決で決めたり、数十人が参加する会議の場で決定されるような〈モノ〉がたりではありません 。
三峯神社縁起 資料 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/53249d31a77f10dfb4dd13ac417b519b
こうした運動が小さな活動として始まることに「物語のいでき始めのおや」としての意味があるのです。
実は源氏物語に出てくる「物語のいでき始めのおや」という「竹取物語」を表したと言われるこの表現自体も、こうしたことの大事なヒントなのですが、本当の「ものがたりのいでき始めのおや」はどこから生まれ、育つのか。
この問いかけこそが私たちの運動の中心課題なので、これから大事に時間をかけてみなさんとともに育てていきたいと思います。
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