月夜野の地名由来と風土 その2
私たちの地元では、源順(みなもとのしたごう)が東国巡業のおりに、この地へ立ち寄り「おお、よき月よのう」といったことが月夜野の地名由来となったという話が伝説として語られていますが、この源順がどのような人物であるかを知る人は意外と少ないようです。
以下に源順についての説明をウィキペディアから抜粋しながら補足してみます。
順は若い頃から奨学院において勉学に励み博学で有名で、承平年間(930年代半ば)に20歳代にして日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂した人物として知られています。
漢詩文に優れた才能を見せる一方で和歌に優れ、天暦5年(951年)には和歌所の寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加した。
それまで万葉仮名と呼ばれる難読漢字表記であった万葉集に、源順らが訓読み表記を施したことで初めて万葉集が広く読み親しめるようになりました。
天徳4年(960年)の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めた。
特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元2年(977年)の斎宮・規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している。
これらの実績から三十六歌仙の一人にも名をつらねています。
しかし、この多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらしく、文章生に補されたのは和歌所寄人補任よりも2年後の天暦7年(953年)で、順が43歳の時のことであった。
大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられる。
天暦10年(956年)勘解由判官に任じられると、民部丞・東宮蔵人を経て、康保3年(966年)従五位下・下総権守に叙任される(ただし、遥任)。
康保4年(967年)和泉守に任じられる。
永観元年(983年)卒去。享年73。
つまり、日本初の百科事典ともいえるような『和名類聚抄』を編纂し、また、万葉仮名表記しかなかった万葉集に初めて訓読み表記を施し後の普及の大きな礎を築いたこと。さらには三十六歌仙のひとりであることなども含め、とにかく大変な学者肌の才人であったようです。
それだけに、「おお、よき月よのう」といった月夜野の地名由来が伝説であったとしても、なぜこの源順がこの土地の伝説に関連付けられる人物として選ばれたのか。他の有名人、紀貫之や菅原道眞、あるいは弘法大師でも源義経でもなく、お堅い学者肌の源順が関連付けられたのは、ただ東国巡業のおりに立ち寄ったというだけでは片付けられない背景が何かありそうに思えてなりません。
さらに考えていくと、「竹取物語」の作者である説もあることから、「月夜野」という地名、「月」との関わりにおいても、様々な妄想が湧いてきます。
私のそうした思いの全体像は以前にこのブログで「物語のいでき始めのおや」http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70
と題して書きましたが、今回は順の代表的仕事である『和名類聚抄』に絞って、少し書いてみます。
古典文献としては、とても重要な文献でありながら、一般に名の知れた書名などに比べたら、それほどこの「和名類聚抄」という本は広く知られているわけではありません。
それでも、ここ月夜野地域では、特に源順の地名由来伝説とつながることなく「和名類聚抄」の名をしばしば目にすることがあります。
ここで再び「和名類聚抄」の概要をまたウィキペディアから引いておきます。
和名類聚抄
名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。
中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。
和名類聚抄は「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれ、その表記は写本によって一定していない。一般的に「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」と略称される。
こうした百科事典的な性格から、日本各地の地名、風俗などが網羅されている都合、この文献で初めて群馬県の様々な地名も記録に現れています。
群馬県の多くの地名由来の説明もこの「和名類聚抄」から始まります。
下の写真に見られるように、「和名類聚抄」によって初めて利根郡では、4つの地名(沼田、男信、笠科、呉桃)が表記されています。
「沼田」とかの漢字変換が面倒なので、略しますが、この4地名の中に「呉桃」とあるのが現在の名胡桃の地名が最初に文献に記されたものです。
ところが、多くの説明でこの「呉桃」がどうして(なぐるみ)と読めるのかは説明しないまま、引用されていることがあり、当初私はそれは地元贔屓の人による勝手なこじつけなのではないかと、かつて疑ってさえいました。
しかし、この原書を見れば、ちゃんと「奈久留美」との読み表記が小さな字で付けられているのがわかります。
原書では、これだけの表記であるため、利根郡の4地名の一つとして名胡桃があるということは、現在の狭い名胡桃の地域を表す地名が、かつては猿ヶ京や三国峠の方まで含めた地名であったのではないかとの推測も地元贔屓の目からは生まれています。
確かに他の地名、沼田や笠科(片品)などと同等に考えれば自然な類推になりますが、どうも源順が調査採集した地名がこの4つであったということ以外、それぞれの地名エリアに関する情報があるわけではなさそうです。まして、県境はおろか正確な地図そのものがなかった時代のことです。
そうした推測を確定するためにも、「呉桃」(奈久留美)の地名語源を一度たどっておくことは重要です。
以下、都丸十九一『続・地名のはなし』から孫引きですが、
尾崎喜左雄博士は『群馬の地名 下』の中(152頁)で次のように述べています。
「なくるみ」に「呉桃」をあてたものであろうか。「呉桃」の「呉」は中国揚子江流域の地方名であり、国名でもあった。わが国の古代ではその地方を「くれ」とよんでいて、「呉」と記している。(中略)「呉桃」は「くれ」の「もも」の意になる。それが「くるみ」であったのだろうか。
尾崎喜左雄『群馬の地名』は、都丸十九一『地名のはなし』とともに、群馬の地名由来の重要文献であるため、その影響力は決して小さいものではありません。
しかし都丸十九一は、これを尾崎博士らしからぬ表現として一蹴しています。
まず、ナクルミに「呉桃」の字をあてたのは和銅六年の「著好字」以来の二字・嘉名の強い行政指導、つまり漢字二文字(中国は一文字に執着)で表現することが日本の場合は適切であるとの指示に従っただけであるとし、「くれ」も「もも」の説明も意味はないとしています。
そもそもクルミは古代に置いて、食料として、また染料として重要な植物で、有用植物が地名になる例は、トチ・クリ・クズ(フジ)・ホドなどとともにきわめて多いとしています。
したがって都丸十九一は、
ナクルミは、胡桃にナを添えてむき出しのえげつなさをソフトなものにしたものと思われる。
と結論づけています。
ふたたび「和名類聚抄」にあたってみると、胡桃は以下のように丁寧に記述されています。
あらためて考えてみれば、東日本の縄文文化にとってトチ・クリ・クズ(フジ)は、ひと際重要な役割を担った植物であるだけに、同類のクルミが縄文遺跡の多いこの地で果たしていた役割の多さは十分検討の価値があると思われます。
果たして当時のこの周辺の植生は、どのようなものであったのでしょうか。
また現代の様子から当時の植生の痕跡をたどることは可能なのでしょうか。
毎度のことながら、妄想も含めて、これから気長に調査を続けてみたいと思います。
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