かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「うた」や「ものがたり」が「文学」になってしまうとき

2016年10月17日 | 暮らしのしつらえ

 

まだ蛍光灯の明かりが普及する前、囲炉裏を囲んで家族が語らう時代、

おばあちゃんが、悲しいことば、

怖いことばを発すれば、

それを聞いている子供達は、まったく同じ悲しい気持ち、こわい気持ちにおそわれました。

また、ほのかな明かりを語れば、

そのままそれを聞く子供の胸には、ほのかな明かりが灯りました。

 

それが、現代の蛍光灯の明かりのもとで語られる物語は、

なぜか、そこに同じ話を聞いている姿があっても

「ものがたり」から「文学」への飛躍のようなものをふと感じてしまうことがあります。

 

 

そう感じたのは、ひとつはある地方の民話の語り部の映像を見たときでした。

ある民話の里でおばあさんが、方言でその土地の昔話を語っているのですが、

なぜか熟練の語り口から方言の味わいはありながらも、

なにか不自然な伝わり方を感じてしまうのです。

 

それと似たような感覚を、絵本の読み聞かせの場でも感じたことがあります。

絵本の読み聞かせも、ベテランの方ともなると随分違うもので、

経験の差で表現力がこんなに違うものかと感心させられました。

ところが、この場合も演出のテクニックにたくさん学ばされるものを感じながらも

何か子供との関係の姿に違和感を感じてしまうことがあるのです。

 

その差が何なのかをうまく説明することができませんが、

その違いの大切な要素になっているのではないかと思われることを二つだけ気づきました。

 

ひとつは、家でお母さんが子どもに絵本を読んであげるとき、

あるいは、ちょっと自信のないお父さんが子どもに読んであげるとき、

おそらくそれらのお母さん、お父さんはほとんど読み聞かせの練習などはせず、

その場その場で子どもにこれはと思う絵本やお話を読んで聞かせているものと思います。

その姿を見たとき、何の練習もテクニックも意識していない読み聞かせであっても、

聞いている子どもは、完璧で最高のものを子どもは受け取っているものと思います。

 

なぜかそこには、上手い下手がまったく問われない完璧な関係が成り立っているのです。

 

もう一つの要素が、部屋の明るさのようなものです。

冒頭の囲炉裏を囲んでかわす会話や、お母さんが寝る前にベットで聞かせてくれるお話、

それらは、蛍光灯に煌煌と照らされる空間ではなく、仄かな明かりのもとで行われる場合が多いものです。
(現代では、そうとは言い切れない場合も多いことと思いますが)

そこには、同じ子どもの想像力で会っても、読み手、語り手と聞き手の子どもとの間には、

暗いからというだけでは説明しきれない、ストレートな感情の直結をもたらす何かが感じられるのです。

 

これらの漠然とした違いの中には、なにか本来の「うた」や「ものがたり」の世界とは異質な、

「文学」としての読み取り、聞き取り、解釈への飛躍が微かに介在してしまっているように見えます。 

 

これは、もしかしたら、「うた」や「祈り」、「ものがたり」の意識世界と、

「文字」「言語」を中心とした世界の質的飛躍の問題なのかもしれません。

 

妻もこうした点では、いろいろ言いたいことがあり、SNSには、こんなコメントを入れてくれました。

歌語り。「又すきずきしき歌語りなども、」....源氏物語        
古代言語だけの伝承を「語り」次第に節回しを持った声と楽器が一緒になり「語りもの」に。
語りから始まった平安の軍記物語から、琵琶法師の平曲にあわせた語り。 
越後ゴゼの小林ハルさん、ゴゼさんの起源はわからないけれど室町時代に
「御前、コゼ、女盲目」と記されたものがあるそうです。
目の見えないゴゼさんに一種の神性を感じゴゼさんも信仰を暮らしの糧に生きていたから、
繊細で身につまされるような感情を描くゴゼの物語歌が人の心を揺さぶるのは
聞くものと語るものの神仏の教えが息ずいていたかも。
親と子のような、祖父母と孫のような...娯楽に乏しい時代にあってゴゼさんの底抜けに明るく、
時には哀切のある弾き、歌いは聞き入れる側にとって時には一服の清涼剤、安らぎに...仄かな明かりのもとで。  
私はこれらに読み聞かせ等の起こりを思う。

 

こうした妻とのやりとりで、出てきた他の大切な要素は、一対一の信頼関係のこと。

それから労働唄が文化保存や観光のための歌になってしまったことの違いなども

とても大事な点であると思います。

 

でもなぜかこうした「文学」や「音楽」とは言えないような「うた」や「ものがたり」を

学校教育では、初めから対象にしてきませんでした。

 

 

これではとても説明不十分と思いますが、この点を何とか

「夜」と「ほのかな明かり」の復権を目指した「月夜野百八燈」の活動で、

追求し続けていきたいと思っているのです。

それは、決してこうすれば説明がつく、といったようなことではなく、

とことん昼間の明かりに侵食され尽くした夜の復権を通じてなされることなので、

とても時間のかかることと覚悟しています。

 

平たく言えば、「文学」や「音楽」に持っていかれるのことない

暮らしの「うた」や「ものがたり」をいかに取り戻せるのかということにもなるでしょうか。

 

どうぞ気長にこれからもおつきあいください。

 

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