9月19日未明に安全保障関連法が成立して3日がたった。この法律に対する反対が止まない。若者や主婦などを中心とした反対派は次の総選挙を見据え活動を強める構えだ。憲法学者や弁護士は「違法」との判断から、裁判でこの法律の違憲性を訴える構えだ。この動きに対し、安倍内閣は国民の理解を得ようと、議員を地元に返し、有権者を説得している。安保関連法の成立後に、有権者を説得する奇妙な動きだ。
筆者はこの法律の制定をめぐって何よりも残念だったのは、冷静で現実的な議論がなされなかったことだ。理念と理念がぶつかり合い、現実的な議論が展開されなかったことだ。この責任の大部分は安倍晋三首相にある。
手順が間違っていた。安倍首相が現実の東アジアの国際環境を踏まえた冷静で現実的な議論が話し合われる舞台を設定し、理想を具現している憲法9条と現実のかい離を説き、、多様な国民的な議論を巻き起こす起爆剤を提供しなかったことだ。
安倍首相が率いる内閣は「お仲間内閣」と揶揄されている。安倍首相が自らの見解やビジョンを共有する人々を重視し、自分の意見に反対する人々を遠ざける傾向が強いというのは事実のようだ。筆者が取材した記者仲間がほとんど皆、安倍首相の「マグナニミティー」のなさを指摘していた。「マグナニミティー」とは寛容さだ。英語の真意は「寛容さ」以上の「寛大さ」だろう。政敵とも喜んで膝を交えて議論する寛大な心の持ち主をいう。
この意味で安倍首相は首相としての大切な資質が欠けているのかもしれない。筆者は国際政治史や1930年代の英国政治史を若い時に英国で勉強したため、このブログでもネビル・チェンバレンとウィンストン・チャーチルをよく引合いに出す。この二人は性格も政策アプローチも違う。チャーチルは英国人には珍しいくらいのあけっぴろげで、ユーモアに富んだ快活な人物。時として大胆で積極的な政策を遂行した。しかしチェンバレンは典型的な英国人で、寡黙であり、実直な人だった。経験則に基づいた現実的な政策を臆病なまでの慎重さで遂行した。
ほぼすべてにおいて水と油ほど違うチェンバレンとチャーチルには共通する部分があった。それは政敵とも議論を尽くし、一旦決まったことは誠実にそれを実行した。
1939年9月3日、当時首相だったチェンバレンは、対独戦争の開始によりチャーチルを入閣させ、海軍相に抜擢した。それまで二人は対独政策でことごとく対立していた。それでもチャーチルの豊富な軍事知識と国民の人気の高さを買い、入閣させた。チャーチルが入閣後、スカンジラビア(ノルウェー)作戦などをめぐって両者は意見を異にしたが、徹底的に議論し、最後には歩調を合わせた。チャーチルはチェンバレンにこう言った。「あなたが首相だ。わたしは持論を述べてネビルに助言する。最終決定者は君であり、君が首相として全責任を負っている」
1940年5月10日、チェンバレンから首相職を引き継いだチャーチルが挙国一致内閣をつくった。その時、チェンバレンを挙国一致戦時内閣6人の1人にした。野党の労働党や自由党に疎まれていたチェンバレンを、チャーチルはあえて労働党や自由党の党首と一緒に仕事をさせたのである。チャーチルが不在の時はチェンバレンが閣議を取り仕切った。あくまで異見を話し合いで解決する。そして内閣の秩序を維持する。両者には暗黙の合意がなされていた。どんなに意見が対立しても、話し合いで解決する。それがどうしてもできない場合は、最後は上に立つものに従う。チェンバレンが首相の時はチャーチルが従い、チャーチルが首相の場合は、チェンバレンが従う。首相が全責任を負っているからだ。議会を離れれば、互いを尊敬しあう友だった。
チャーチルは議会で議論した。派閥を嫌った。議会で議論をしたら、真っ先に帰宅した。そして勉強した。議会だけがチャーチルにとりおおやけでの議論の場だった。もちろん、私的には自宅に友を呼び、討議した。
選挙区にもどれば、有権者と政策や問題について議論した。決して「次の選挙でお願いします」と選挙運動をしなかった。通りで選挙スローガンを絶叫しなかった。それが政治家の仕事だと信じたのである。
チェンバレンが1940年11月9日、胃がんで亡くなり、その数日後、チャーチルは彼の死を悼み、議会で有名な演説をした。たとえ政敵であっても、「マグナニミティー」の精神と民主主義の精神で対応したのがチャーチルだった。それを一番理解していたのがチェンバレンだった。
今日、日本が重大な岐路に立っているとき、チェンバレンやチャーチルのような政治家が日本にいないのは日本国民にとり不幸なことだが、そう述べても詮無きことだ。
国際政治学者の中西寛・京都大学教授が、22日付朝日新聞の「にっぽんの現在地」で「日本を取り巻く安全保障環境は50年単位で大きく変わるが、今はその時だ」と語っている。中国の台頭と米国の国力の総体的な衰えがそうさせているのだ。
中西氏は今回の安保関連法案の議論で「合憲か違憲かに話が集中してしまったのは残念でした」と述べている。国際政治的な判断、国際法や安全保障を含めた中での判断が必要だったという。また「幕末の鎖国か開国か」の議論に重なるところがあるとも言う。そして何よりも「詰めた議論がなされなかった」と話している。「日本の安全保障や防衛の問題で不幸なのは、政府・与党は『おれに任せておけば、心配ない』という態度をとり、逆に野党や反対派は一律反対で揚げ足取りを優先し、議論が深まらない」
筆者は中西教授に同感だ。現実的で冷静な議論が今こそ安倍首相や閣僚、野党各党、国民各派に求められている。
安倍首相は独断専行して行動してはならない。自らの信念を過信し、猪突猛進すれば禍根を残す。安保関連法のような国家の安全と独立を左右する最重要法に対して、国論の分裂を顧みることなく自らの意思を通せば、結局はいかなる危機にも対応できる防衛体制を敷けない。国論の分裂ほど不幸なことはないし、国を弱体化させることになる。東アジアの大きな変化にも対応できなくなるだろう。
民主主義制度の下で国論が一致し、国民が固い団結をつくり上げた時、それは中国のようないかなる独裁国家をも打ち破るだろう。第2次世界大戦の1940年の初夏から秋において英国の存亡をかけた「バトル・オブ・ブリテン」がそのことを立証している。英国のすべての人々は、チャーチル首相の指導下、英国人が700年以上にわたって築き上げた民主主義制度を守らんがために、一致団結して独裁者ヒトラーとナチスドイツの侵攻を退けたのである。
国民が一致団結したとき、中国のような共産主義独裁体制であろうが、ナチス・ドイツのようなナチズム独裁体制であろうが、いかなる種類の独裁体制を民主主主義国家は打ち破ることができるのである。
写真 ウィンストン・チャーチル(左)とネビル・チェンバレン(右)
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筆者はこの法律の制定をめぐって何よりも残念だったのは、冷静で現実的な議論がなされなかったことだ。理念と理念がぶつかり合い、現実的な議論が展開されなかったことだ。この責任の大部分は安倍晋三首相にある。
手順が間違っていた。安倍首相が現実の東アジアの国際環境を踏まえた冷静で現実的な議論が話し合われる舞台を設定し、理想を具現している憲法9条と現実のかい離を説き、、多様な国民的な議論を巻き起こす起爆剤を提供しなかったことだ。
安倍首相が率いる内閣は「お仲間内閣」と揶揄されている。安倍首相が自らの見解やビジョンを共有する人々を重視し、自分の意見に反対する人々を遠ざける傾向が強いというのは事実のようだ。筆者が取材した記者仲間がほとんど皆、安倍首相の「マグナニミティー」のなさを指摘していた。「マグナニミティー」とは寛容さだ。英語の真意は「寛容さ」以上の「寛大さ」だろう。政敵とも喜んで膝を交えて議論する寛大な心の持ち主をいう。
この意味で安倍首相は首相としての大切な資質が欠けているのかもしれない。筆者は国際政治史や1930年代の英国政治史を若い時に英国で勉強したため、このブログでもネビル・チェンバレンとウィンストン・チャーチルをよく引合いに出す。この二人は性格も政策アプローチも違う。チャーチルは英国人には珍しいくらいのあけっぴろげで、ユーモアに富んだ快活な人物。時として大胆で積極的な政策を遂行した。しかしチェンバレンは典型的な英国人で、寡黙であり、実直な人だった。経験則に基づいた現実的な政策を臆病なまでの慎重さで遂行した。
ほぼすべてにおいて水と油ほど違うチェンバレンとチャーチルには共通する部分があった。それは政敵とも議論を尽くし、一旦決まったことは誠実にそれを実行した。
1939年9月3日、当時首相だったチェンバレンは、対独戦争の開始によりチャーチルを入閣させ、海軍相に抜擢した。それまで二人は対独政策でことごとく対立していた。それでもチャーチルの豊富な軍事知識と国民の人気の高さを買い、入閣させた。チャーチルが入閣後、スカンジラビア(ノルウェー)作戦などをめぐって両者は意見を異にしたが、徹底的に議論し、最後には歩調を合わせた。チャーチルはチェンバレンにこう言った。「あなたが首相だ。わたしは持論を述べてネビルに助言する。最終決定者は君であり、君が首相として全責任を負っている」
1940年5月10日、チェンバレンから首相職を引き継いだチャーチルが挙国一致内閣をつくった。その時、チェンバレンを挙国一致戦時内閣6人の1人にした。野党の労働党や自由党に疎まれていたチェンバレンを、チャーチルはあえて労働党や自由党の党首と一緒に仕事をさせたのである。チャーチルが不在の時はチェンバレンが閣議を取り仕切った。あくまで異見を話し合いで解決する。そして内閣の秩序を維持する。両者には暗黙の合意がなされていた。どんなに意見が対立しても、話し合いで解決する。それがどうしてもできない場合は、最後は上に立つものに従う。チェンバレンが首相の時はチャーチルが従い、チャーチルが首相の場合は、チェンバレンが従う。首相が全責任を負っているからだ。議会を離れれば、互いを尊敬しあう友だった。
チャーチルは議会で議論した。派閥を嫌った。議会で議論をしたら、真っ先に帰宅した。そして勉強した。議会だけがチャーチルにとりおおやけでの議論の場だった。もちろん、私的には自宅に友を呼び、討議した。
選挙区にもどれば、有権者と政策や問題について議論した。決して「次の選挙でお願いします」と選挙運動をしなかった。通りで選挙スローガンを絶叫しなかった。それが政治家の仕事だと信じたのである。
チェンバレンが1940年11月9日、胃がんで亡くなり、その数日後、チャーチルは彼の死を悼み、議会で有名な演説をした。たとえ政敵であっても、「マグナニミティー」の精神と民主主義の精神で対応したのがチャーチルだった。それを一番理解していたのがチェンバレンだった。
今日、日本が重大な岐路に立っているとき、チェンバレンやチャーチルのような政治家が日本にいないのは日本国民にとり不幸なことだが、そう述べても詮無きことだ。
国際政治学者の中西寛・京都大学教授が、22日付朝日新聞の「にっぽんの現在地」で「日本を取り巻く安全保障環境は50年単位で大きく変わるが、今はその時だ」と語っている。中国の台頭と米国の国力の総体的な衰えがそうさせているのだ。
中西氏は今回の安保関連法案の議論で「合憲か違憲かに話が集中してしまったのは残念でした」と述べている。国際政治的な判断、国際法や安全保障を含めた中での判断が必要だったという。また「幕末の鎖国か開国か」の議論に重なるところがあるとも言う。そして何よりも「詰めた議論がなされなかった」と話している。「日本の安全保障や防衛の問題で不幸なのは、政府・与党は『おれに任せておけば、心配ない』という態度をとり、逆に野党や反対派は一律反対で揚げ足取りを優先し、議論が深まらない」
筆者は中西教授に同感だ。現実的で冷静な議論が今こそ安倍首相や閣僚、野党各党、国民各派に求められている。
安倍首相は独断専行して行動してはならない。自らの信念を過信し、猪突猛進すれば禍根を残す。安保関連法のような国家の安全と独立を左右する最重要法に対して、国論の分裂を顧みることなく自らの意思を通せば、結局はいかなる危機にも対応できる防衛体制を敷けない。国論の分裂ほど不幸なことはないし、国を弱体化させることになる。東アジアの大きな変化にも対応できなくなるだろう。
民主主義制度の下で国論が一致し、国民が固い団結をつくり上げた時、それは中国のようないかなる独裁国家をも打ち破るだろう。第2次世界大戦の1940年の初夏から秋において英国の存亡をかけた「バトル・オブ・ブリテン」がそのことを立証している。英国のすべての人々は、チャーチル首相の指導下、英国人が700年以上にわたって築き上げた民主主義制度を守らんがために、一致団結して独裁者ヒトラーとナチスドイツの侵攻を退けたのである。
国民が一致団結したとき、中国のような共産主義独裁体制であろうが、ナチス・ドイツのようなナチズム独裁体制であろうが、いかなる種類の独裁体制を民主主主義国家は打ち破ることができるのである。
写真 ウィンストン・チャーチル(左)とネビル・チェンバレン(右)
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