本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

その背景を知る

2020-11-11 20:24:09 | 十地経

仏教の歴史も流れで見ると

お釈迦さまがさとりを開いて

涅槃に入られた後

根本分裂が起こり

北伝の仏教つまり大乗仏教

中国から朝鮮を渡り日本へ

という流れと

南方に行った仏教

小乗仏教(上座部仏教)という

大きな二つの流れがあります。

 

歴史の流れとしてみれば

そうなのですが、

魂の歴史というか菩提心の歴史

というか

釈尊を生み出した背景という歴史

から見ると

この見方が逆転してきます。

 

講義の中で、

「釈迦仏、ゴータマ・ブッダが

仏陀になった背景ですね。

奇跡で仏陀になったんじゃない。

背景です、これが大事なことです。

ゴータマ・ブッダを仏陀にした背景

ここから大乗仏教がおこってきた。

 

ではその仏陀から出発したら

どうなるか、

仏陀から出発するのが声聞・縁覚

というんです。

仏陀から出発すれば

仏陀の弟子です。

仏陀にはなれん。

仏陀の教え子になってしまう。

仏から生まれるけど、

仏を生まんでしょう。

 

背景がなければ、

それより他は道はないと思います。

何でも、

弟子は先生より下のもんだと

初めから先生以上なら

弟子になる必要はないですね。

 

今ここに菩薩が生まれてくるのは

あの仏陀の背景を見るから、

仏陀を、

個人存在に見んのでしょう。」

 

南伝のお経には

お釈迦さまの言行録として

生身の声が聞こえてくる

ということで大事にする一面も

ありますが、

人間釈尊とかで

一時期そういう運動もあって

漢訳の経典よりも

南に伝わったパーリー語から

直接読んでいこうと、

 

以前、そういう方のお経を聞いて

あるときお釈迦さまは

こうされまして、お弟子の方々は

こうされたというような

分かりやすい言葉と

いえばそうなんですけど

なんとも不思議な感じというか

分かりやすくて重みがない

含蓄がない薄っぺらいものに

感じてしまいました。

 

やはりそこには

玄奘三蔵が苦心して

翻訳プリジェクトチームを作り

訳していかれたのと

わけが違うように思います。

人によってはパーリー語から

英訳されたものを日本語に直す

というようなことで

お経を翻訳されていた

ということもありました。

 

人は立派な人が出ると

英雄視するというか

祀り上げてその人の子分に

なるということがあります。

講義ではそこのところを

 

「偉い人だという具合に

見ない立場が大乗なんです。

個人崇拝というものでない立場

です。

だから、個人は

ただ個人ではないんです。

歴史的個人です。

その個人が代表しとるものが

大きいんです。

ところがなかなか人間は

そうは見ないです。

弘法大師、あるいは親鸞聖人

そういうところに着眼して

それを取って離さん

ということになる。

腰にすがりつく。

そういうことになります。

けどそういうようになった連中は

弟子ですね。

ただ親分にしとるだけです。

そうすると党派が生まれる

セクトですね。

そうじゃないんです。

弘法大師をして

弘法大師たらしめるもの

それが大事でしょう。」

 

政治の世界でも徒党が重要で

それによって派閥が生まれ

力関係が生じてきます。

世間ではそうですが

いったん教えということの伝承

となると

徒党になれば教えではなく

個人感情になってしまいます。

純粋に法ということを求めると

個人というよりも

その個人を生み出した背景を

見出すことが大切です。

 

今の宗教界も

弟子師匠ではなく

親分子分のような関係に

なってきているのも事実な

ような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヒルガオかマルバアサガオか

2020-11-10 20:26:48 | フラワー

近くの近鉄沿線の土手には

野生化したのか

いろいろの花が季節に応じて

咲いています

今の時期、冬を迎えて

草花もあまり見かけませんが

 

 

アサガオなのでしょうか

夏の花なのに

温かさに誘われて

まだ花を咲かせています

 

歩いていると

ふと目に飛び込んできたのです

 

 

季節外れのような

それでも精一杯花開いています

 

この花はどちらでしょう?

ヒルガオであればヒルガオ科

マルバアサガオであれば

スミレ科の植物です

色からするとマルバアサガオ

でしょうか?

 

となるとこの植物は

外来の植物で原産は南アメリカ

開花時期が8月から9月

そうするとまだ遅咲きの花が

残っていたのかもしれません

 

 

温かい日差しを浴びて

これから冬の寒さがくることを

知らないかのように

美しく

気持ちよさそうに咲いていました

 

目にとまった一枚でした。

 

 

 

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玄関とアトリエ

2020-11-09 20:24:18 | 十地経

講義の中でよく出てくる譬えです

「玄関とアトリエ」

ちなみに、何気なく使う「玄関」

という言葉も元は仏教語です。

 

仏教辞典には

玄妙(奥深くてすぐれた)な道に

進み入る関門。

とあります。

玄妙なる関門が短くなって玄関

それが転じて普通の家の入口

が玄関となりました。

 

門と言えば「入門」というのも

仏教語なのです。

仏教では門ということも

とても大切にします。

 

大きなお寺にお参りに行って

門が分からなくて

ぐるっと一周した

ということがあります。

お浄土は見えているのに入れない

門が見つからないのです。

だから門というのは大事です。

 

講義で、

玄関とアトリエということは

俗世間と出世間、

日常生活と精神生活

というたとえで出てきます。

 

家の中でも、

仏間や床の間と台所・玄関は

そういう場所に当たると思います。

 

「玄関というのは外に開いている

から、玄関というんです。

寒いとか暑いとか、

儲かった損したという具合に、

窓を開いてあるでしょう。」

「まあ月給ほしくないというのは

おりゃせん。

月給やらんといったら

誰も就職せんでしょう。

月給もらえるから就職する。

けど就職して研究したらもう

月給は忘れるでしょう。

月給で就職するけど、

しかしそれによって月給もらって

自分の仕事に入ったら、

もう月給を超えるでしょう。」

 

と出てくるのですが

他の時には

玄関は色々打ち合わせをする場所

例えば画家がいて、

絵を描いてもらうとき

どの大きさにするか

値段はいくらにするか

そういうところが玄関、

いったん、アトリエに入ったら

画家は値段のことは忘れて

絵を描くことに集中するでしょう。

そういう二つの世界をもつことが

大事だというようなことです。

 

おかしな話ですが、

むかし面白い坊さんがいて

檀家参りをして

お経をあげているとき

ここまででしたらいくらですけど

まだ読みますかと

言ったというのです。

 

しかし、

このことも人は笑えないもので

私も苦い思い出があります

お婆さんの一人住まい

冬場でもストーブもない

適当に切り上げようと

お経を略したのです。

ところがどこを読んでいるか

自分でも分からなくなり

覚えているお経を

つぎはぎだらけで読んだら

とても時間がかかってしまい

お婆さんからは

今日はいつもと違って

随分丁寧に上げていただき

有り難うございました。

と言われ赤面したことがあります

それ以来、

経本は持って

一字一句間違えないように

読むことにしました。

 

そうなると、

心は散漫になり

つまり玄関先で上げているような

ことになってきます

短くても

一字一句間違えないように読めば

集中できるものです。

 

『十地経講義』でも

私にとっては三昧の世界に

導いてくれる入口です

お話を頼まれたときなど

少しは早めに着いて

『十地経講義』を開いたところを

読むようにしています

十地経の話を

する訳ではないのですが

心が落ち着き

今まで聞いてきた話が

ふと浮かんでくるのです。

 

玄関だけで生きていると

心も千々に乱れ

何かしら疲れ果てるものです

アトリエというか

そういう集中できる場所

損得や好き嫌いを忘れ

没頭できる場所

そういうものが必要と思います

かといって

玄関という月給の問題も

忘れて蔑ろにしてしまうと

生活も成り立ちません。

 

そういう二つの世界を

もたないと生きれないのが

私たちのようです。

 

 

 

 

 

 

 

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仏は化生といわれる

2020-11-07 20:44:43 | 十地経

この「化」という字も

普段には化け物とか化学とか

化けて変化するような意味に

使われますが、

仏教にもよく出てくる字で

その場合は「ケ」と発音します。

 

仏は化生(けしょう)といわれる

というように読みます。

 

「化」という字は

成り立ちも面白く、

人偏かと思いきや

匕(さじ)部の字で

人とさかさまになった人から

できています。

上の人が下の人に教えをおよぼす

という説もあるようで、

こういう意味が仏教ではよく

使われています。

 

教化(きょうけ)ということが

熟語としてはよく使われます

教導化益キョウドウケヤク

教えを説いて衆生を導き

めぐみを与えるということです

 

教化する人を能化ノウケ

教化される人を所化ショケと

それで真言宗でも管長さんの事を

「能化さん」と呼ぶ宗派も

あります。

 

教化する人ということで

仏のことを化生ケショウといいます

また仏はその人その人に合った

教え方をして導かれたので

「適化無方」チャッケムホウ

一つの定まった方法ではなく

人に応じて適切な導き方を

されたということです

また随縁化物ズイエンケブツとも

縁に随い適宜に衆生を教化された

ということです

この場合の物ということは

衆生という意味です

物故者の時の物と同じです

(たまに仏故者と書かれる方も

 いらっしゃいます

なるほど、亡くなって

仏になったのだから仏でも

いいような気もしますが

この場合は衆生を表すので物と

書くのです)

 

また、仏教では

四生シショウということがあって

生物の生まれる姿を

四つに分類したのです

「胎・卵・湿・化」

タイ・ラン・シッ・ケ

といって

胎生タイショウ、卵生ランショウ

湿生シッショウ、化生ケショウ

といいます

胎生は母胎から生まれるという

人や獣類です

卵生は卵から生まれる生き物で

鳥類とか爬虫類など

湿生は湿気から生まれる

今では科学的に見えますが

昔は湧いて出る虫(蚊)などを

湿生といったのです

化生(化けて出るものではなく)

他によらずに自らの業力によって

忽然と生まれ出るもの

今の頭では考えにくいのですが

諸天とありますから

四天王とか梵天帝釈天とか

龍とか鳳凰など

そういう生き物をそのように

呼んだのでしょう。

 

それから「遷化」センゲ

という言葉もあります

僧籍にある人がなくなった時

もっぱらこの遷化という言葉を

使います

もともとは遷移化滅センイケメツ

ということで人が移り変わり

滅していくということです。

 

余談ですが

喪中はがきの中にも

僧籍にある方でも

永眠しました、とありますが

仏になるのはさとりに目覚める

のですから、

永遠に眠ってしまっては

いけないのではと思うのです。

 

『十地経講義』のなかには

こういうありとあらゆる言葉が

出てきて

「化生の世界」とか仏は化生

という言葉も一瞬戸惑って

しまいますが、

よく読み返していくと

なるほどと思われてきます。

 

通り一遍に読めば何のことは

ないのですが、

知れば知るほど分からないことが

出てきて、講義の奥深さを

ひしひしと感じます。

 

 

 

 

 

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秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ

2020-11-06 20:29:13 | 住職の活動日記

秋の田を見ていると

ふと口ずさむのがこの歌です

「秋の田の 仮庵カリホの庵イオの

 苫トマをあらみ 我が衣手は

  露にぬれつつ」

百人一首第一番に出てくる

天智天皇の歌

 

 

もうすっかり稲刈りも終わっている

様子です

この一帯はもとは大きな田圃が

あったのですが

段々住宅が押し寄せて

今では田圃の方が肩身が狭い

様相になってきました。

 

そのもっと前は

この一帯は巨椋池だったのですが

干拓事業で田圃に

生まれ変わったのです。

 

 

刈り取った後を見ると

ちらちらと緑の稲が顔を

出しています。

京都でもこの巨椋池の田圃は

一番の刈入れが行われるようです。

 

苫というのは

茅カヤを菰コモのように編んで作った

小屋ということですが

昔の歌に

因縁ということを表現した

 

「引き寄せて結べば草の庵にて

 解くれば元の野原なりけり」

 

という歌があります。

すべて物事は因縁によって

できている

最初からそういうものが

あるのではないということです

 

苫という庵があるのではなく

引き寄せて結べば

草の庵にもなるし

解いてしまえば

もとの草むらになてってしまう

私たちは何事も固定して

考えてしまいがちです

そして

そいうものがあるかのごとく

それに固執してしまい

これはこういうものなのだと

決めてしまうところに

いろいろ問題が生じるようです。

 

この田圃もこれから少しの間

お休みに入ります

そして肥やしをやり耕して

また美しい田圃に変わっていく

ことでしょう

しかし、

埋め立てられて住宅が

増えてくるかもしれません。

 

田圃と思っていても

土を入れてコンクリートで固め

家が建ちだすと

田圃ではなく住宅地に

変わっていきます。

 

もともとは大きな池(巨椋池)で

ここら付近は漁業の町だったのが

干拓により水が抜かれ

田圃に生まれ変わり

また埋め立てられて住宅へと

所によっては

高速道路が走り橋脚となり

同じ場所でも

いろいろ変わって(諸行無常)

縁によって何ににでも変わる

そういう姿を見せてくれます。

 

「吾が衣では露にぬれつつ」

と詠んでいたところも

今ではその面影もなく

すっかり変わっているかもしれません

 

それが当たり前

といっていしまえば

そうかもしれませんが

そういうこと自体が縁によって

動かされているという事実を

知って見ていくのも

縁ということの深さが

感じ取られるようです。

 

 

 

 

 

 

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背割提の猫たちの秋

2020-11-05 20:38:30 | 住職の活動日記

穏やかな秋晴れ

お昼も終わりいつもの背割提へ

 

 

少し色づき始めた桜の木

しかし、落ち葉は

美しい紅葉を見せています

 

 

歩き出すと、

正座というかちゃんとお座りした

猫ちゃんたちがいます

 

 

どうも、今日のご飯を待っている

様子です

 

 

こちらでは身を潜めて

いつもの人を待っているのでしょう

この子たちにも縄張りというか

それぞれの居場所があるようです

 

 

お行儀よく座って

今か今かと待っています

 

折り返し地点まで行って

帰りがけには

いつものおじさんたちの一群に

 

 

一杯のご飯を頂いて

食べ終わると撫でてもらい

お腹を見せてゴロにゃんです

 

「年金のおすそ分けです」

これから冬にかけて

お腹いっぱい食べて

蓄えておかないと

冬が越せませんからと

話しておられます。

 

 

一缶ほどをペロッと

たいらげるそうです

 

 

お腹いっぱいになると

タッチタッチしてもらい

一番幸せなひと時でしょう

 

 

こちらの猫ちゃんは

これからのようです

もとは飼い猫だったようです

毛並みもいいし

座り方も立派なものです

 

頭上からコツコツコツという

リズミカルな音が聞こえてきます

目を凝らしてみると

 

 

キツツキなのか?

それとも木の中の虫を

捕っているのか

 

 

後ろ姿ですが

どこにいるか分かりますか

 

 

木津川の流れは穏やかで

大きな砂だまりが出来ています

 

ネコも人との付き合いは長く

9500年前にはキプロス島では

ネコが人間と並んで埋葬されて

いたということです

そういう深い関りのある猫ですが

可愛い反面やはり野生の本性も

残っていて

鳥や小動物を捕らえるようです。

 

そういえば、

お寺の猫たちも普段はおとなしい

のですが

たまにうなり声をあげて

玄関から、今帰ったぞ!

と言わんばかりに

帰ってくることがあります

口にはトカゲや何かの虫を

咥えています

お土産を持って帰ったと

意気揚々と

まるで自分の仕事をはたしたかの

ような具合です。

 

そういう猫たちの

一面も持っているようですが

ここではたらふく頂いて

狩りの心配もない風です

しかし、世界的に見てみると

223億匹もの鳥やリス、鼠、兎

が犠牲になっているそうです。

 

これから寒さに向かって

しっかり食べ込んで脂肪をつけて

冬に備えなければいけません。

 

エサやりのおじさま方も

私と同世代かちょっと上

私が死んでも次の人が後を

受け継いでくれますから

そうやって代々ここの背割提の

ネコちゃんたちは守られて

きているようです。

 

畜生という言葉も

畜養せられた生・いのち

ということで、傍生とも訳され

傍らに寄り添って生きる

ということでしょうか

寄り添いながらおじさんたちに

愛を与えているのかもしれません

ね。

 

 

 

 

 

 

 

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胎内の五位

2020-11-04 20:36:06 | 十地経

「胎内の五位」

こういう言葉も『十地経講義』の

なかで知ったのですが、

仏教では胎内という医学的なこと

も取り上げています。

人間を問題にしているのですから

精神面だけでなく

その精神を宿している肉体面も

「身」ということで

特に重要に扱っています。

 

講義では、

「古い思想があってですね、

父母所生という意味が

胎生という意味です。

これは胎蔵界というでしょう。

曼荼羅の胎蔵界と金剛界です。

これはある意味の産婆学です。

胎内五位といって妊娠です。」

 

というように出てきたのです。

調べてみると

胎児の266日間の成長の次第を

五つの段階に分けて胎内五位と

1.羯羅藍カララン

(インドの言葉の音写ですから

 難しい言葉ですが)

 受胎直後の7日間のことで

2.阿部曇アブドン。第二の7日間

3.閉尸ヘイシ。 第三の7日間

4.鍵南ケンナン。  第四の7日間 

5.鉢羅奢佉ハラシャキャ

 手足が形成される位。

 出産までの238日間

と難しい言葉ですが

こういう世界まで仏教が見ている

ということは面白いと思います。

 

その反対に

胎外の五位(たいげのごい)

というのは、出生以後の一生涯を

五つの期間に分けた位です。

1.嬰孩ヨウガイ(出生~6歳)

2.童子(7歳~15歳)

3.少年(16歳~30歳)

4.中年(31歳~40歳)

5.老年(41歳以降)

というように分けています。

 

それから「父母所生」ブモショショウ

ということですが、

真言宗でも

「父母所生身即證大覚位」

ということをいいます

即身成仏を強調して、

父母から生まれた肉身そのままで

仏の究極的なさとりの位に上がる

ということです。

 

仏教が取り扱っているのは

人間に関することすべてと

いっていいと思います

住んでる世界のことも

過去現在未来という時間のことも

医学的な生理学の面も

そして人間がほとけになるという

精神面も扱っています。

 

ですから、五位ということも

存在のすべてを五種に分ける

ということもあるし、

修行の段階を五つに分ける

ということもあります

このことは『十地経』でも

よく出てくることなので

言葉だけでも紹介します。

 

1.資糧位シリョウイ

 仏になるための善行とか

 もとでを蓄える位

2.加行位ケギョウイ

 前に集めたもとでを更に

 修行を加える位

3.通逹位ツウダツイ

 初めて真如の理を体得する位

 『十地経』でいう初歓喜地

4.修習位シュウジュウイ

 習い修するですから

 前で得た智を繰り返し

 おさめる位

 『十地経』の二地以上

5.究竟位クキョウイ

 最終の仏の位

 至高最終の涅槃を究竟涅槃 

 といいます。

 

まあ、知らない事ばかりで

新たな発見というか

読むごとに仏教の奥深さを

思い知ります

そのことは退屈しなくて

楽しいことでもあります。

 

 

 

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竈(かまど)という字を書いてみよう

2020-11-03 20:22:26 | 漢字

いま、『鬼滅の刃』の主人公

竈門炭次郎の字に出てきます

書き順ですが

今は便利でネットを見ると

どのような字でも書き順を

すぐに見ることが出来ます。

 

似たような字に「龜」

があります

この字もたまに書かないと

すぐに忘れてしまいます。

よく見れば全く違うのですが

どことなく似ている気がします

 

「竈」という字は

穴部の字になります。

この字の成り立ちも面白く

火の神である祝融シュクユウから

きていて、

祝融神がいる穴という意味です

 

最近はコロナの影響もあり

大勢集まって楽しむことが

できないということで

家族や一人でキャンプを楽しむ

ということが盛んなようです

スポーツ用品店が品数が

大半をキャンプ用品が占めている

ようです。

キャンプで欠かせないのが

火を燃やすということです。

 

俳優の方で名前は忘れましたが

火を燃やすのが趣味という方が

いらっしゃいました

庭の隅に炉を作り

何を炊くでもないただ火を燃やす

すると妙に気が落ち着くと

話しておられました。

 

印度でも拝火教というのがあって

火を神としてまつる

その流れが真言宗の護摩になった

のでしょう

護摩ということも火という意味で

ホーマが護摩になったのです

護摩も生き物のようで

同じものを焚くのに

燃え方が同じという事は

一つもありません

火を焚くということは

何かしら神秘的でもあり

魅力を感じるものです。

 

「祝融」といえば

火をつかさどる神であり

「祝祷」といえば

神に祈ることでいのりを

表します。

そこで見てみると

「祝」という字の意味も

成立ちも面白く、

神を表す「示」と

せむしの人の形と口とからなり

シュクの音は神に向かって

呼び求めるという意味です。

古代では、

せむしの人は、神と人との

なかだちができる神聖な人と

考えられていたのです。

その神聖な人が神福を求めて

呼び叫ぶということが

「祝」の意味の成り立ちです。

 

今では、お祝いとかご祝儀など

もっぱらお祝いの意味で使います

が、もともとは神と関係した

言葉のようです。

 

竈もおくどさんとかいって

昔はとても大切にし

正月にはお鏡をお供えした

ものです

火を使うということは

命と深いかかわりをもっている

ということです

「油断大敵」

という言葉もあるように

火を守っていくというのは

私たちの命を守るのと

同じ事を意味したのでしょう。

 

竈門炭次郎ですから

竈の炭

何かしら作者の深い思い入れ

があるように感じます。

 

 

 

 

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悲劇が喜劇に変わる

2020-11-02 19:29:47 | 十地経

悲劇tragedyトラジディ

シェイクスピアの四大悲劇

とか有名ですが、

それに対するのは喜劇コメディー

ということですけど、

喜劇とかコメディーというと

「吉本新喜劇」が頭に浮かび

ドタバタするようなものと

思いがちですが、

安田先生も、

「ああいうのは喜劇じゃない、

笑劇というんです。

翻訳の名前が悪いんでしょう。

悲劇に対して楽劇(らくげき)が

いいかもしれませんね。」

とおっしゃっています。

「ダンテの神曲というのは

あれはコメディーcomedyです。

ギリシャの悲劇、ある意味

悲喜劇かもしれません」

 

キリスト教で「福音」という

ゴスペルということがあります

ゴスペル・gospel は

ゴッド・スペルで神からの知らせ

神からの幸福な知らせ・音信

ということでしょう

ドイツ語では「エバンゲリオン」

Evangeliumエバンゲーリウム

となりますが、

 

「喜ばしき知らせ」という

喜劇ということも

そういう喜ばしき知らせ

ということを題材にしたのでは

ないかと思います。

ですから、今でいう喜劇は

ただ笑うだけで

それも最近では笑えないものも

多くありますが

喜劇という

喜ばしき音信というと

神曲ということも何となく

分かるような気がします。

 

仏教にも「悲劇」ということを

題材にしたお経があります。

先生の講義では

「王舎城の悲劇」

この阿闍世アジャセという息子が

父親を殺した。

そしてまた母親も殺そうと

したという、

まあ大きな一つの悲劇です。

あんな悲劇はいってみりゃ

家庭悲劇です。

そんなものは新聞を見れば

親を殺したというのは

なんぼでもざらにある。

それがなぜ有名になった

かというと、

人間的には悲劇であったけれども

その悲劇が縁となって

仏法を興隆したと。

こういう意味であの悲劇は有名

なんです。」

 

「阿闍世をそそのかしたんです

その六師外道というのが

それで非常に後悔したんです。

その悔悟の念に駆られて

苦しんでいるんです。

それを耆婆ギバという医者が

仏陀のところへ連れていくという

話なんです。

そこに人間の回心エシンの道程が

極めて的確に表現されている。」

 

「つまり、後悔が回心まで

いくんです、懺悔サンゲまで。

後悔は苦しいでしょう。救いがない

けど懺悔は救われる。

懺悔は罪が消えたんではない、

罪を忘れたら懺悔にならん。

罪がなくなれば懺悔にならんし

罪に苦しめられれば、

それは後悔であって懺悔ではない

妙な字で、つまり

浄められた罪です。」

 

「罪を恐れとって

自分が罪を作りながら

それ否定しようとするような主観

が破れてですね、

そして、

そうすれば罪を引き受けるんだ。

罪そのものよりも、

罪を避けようとする我執が

苦しむんです。」

 

「そのときに、親を殺したので

六師外道の方へ行くんです

すると、六師外道の方は

何をあんたくよくよしとるんか

今日は顔色が悪いが、

何をくよくよしとるかと

言葉をかけるんです。

そのかけ方がなかなか的確だと

思うんです。

殺したって悩んでいるらしいけど

何、鎌が稲切って鎌に罪があるか

というようなもんだ、

大きな虫が小さな虫を食って

それが悪いと思うか

殺して生きれんのなら

生きとるものは一人も

おらんではないかと。

いらんことにくよくよするなと」

 

「ところが、

耆婆が訪問した時はどう言ったか

というと、

苦しいでしょうと声をかけた

言葉のかけかたが違う

苦しいでしょうと

阿闍世そのものになって

それで仏陀のもとへ連れて行く

初めは一人ずつ馬に乗っていたけど

恐いもんだから

耆婆の馬に乗せてくれというんだ

その恐れは地獄に落ちるという

恐れや。

それで仏陀に遇うた。

すると仏陀に遇って帰る時には

人類のために地獄に落ちるのなら

もう喜んで地獄に落ちようと。

こう言う言葉に変わってくる。

地獄に落ちても後悔せんんと

これだけの確信をもって

帰ってくる。

地獄に落ちることを恐れていた

人間が、

あえて落ちることを恐れんと、

この変化です。

こういうような変化を与えるのが

宗教心です。

 

落ちやせんかと思って苦しんどる

落ちた人間は立ち上がるんです。」

 

何かしらそういうところに

父を殺したという悲劇が

人類のために

地獄に落ちても悔いないという

仏に遇って仏からの福音を聞いて

そういう喜劇に変わっていく

ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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