悲劇tragedyトラジディ
シェイクスピアの四大悲劇
とか有名ですが、
それに対するのは喜劇コメディー
ということですけど、
喜劇とかコメディーというと
「吉本新喜劇」が頭に浮かび
ドタバタするようなものと
思いがちですが、
安田先生も、
「ああいうのは喜劇じゃない、
笑劇というんです。
翻訳の名前が悪いんでしょう。
悲劇に対して楽劇(らくげき)が
いいかもしれませんね。」
とおっしゃっています。
「ダンテの神曲というのは
あれはコメディーcomedyです。
ギリシャの悲劇、ある意味
悲喜劇かもしれません」
キリスト教で「福音」という
ゴスペルということがあります
ゴスペル・gospel は
ゴッド・スペルで神からの知らせ
神からの幸福な知らせ・音信
ということでしょう
ドイツ語では「エバンゲリオン」
Evangeliumエバンゲーリウム
となりますが、
「喜ばしき知らせ」という
喜劇ということも
そういう喜ばしき知らせ
ということを題材にしたのでは
ないかと思います。
ですから、今でいう喜劇は
ただ笑うだけで
それも最近では笑えないものも
多くありますが
喜劇という
喜ばしき音信というと
神曲ということも何となく
分かるような気がします。
仏教にも「悲劇」ということを
題材にしたお経があります。
先生の講義では
「王舎城の悲劇」
この阿闍世アジャセという息子が
父親を殺した。
そしてまた母親も殺そうと
したという、
まあ大きな一つの悲劇です。
あんな悲劇はいってみりゃ
家庭悲劇です。
そんなものは新聞を見れば
親を殺したというのは
なんぼでもざらにある。
それがなぜ有名になった
かというと、
人間的には悲劇であったけれども
その悲劇が縁となって
仏法を興隆したと。
こういう意味であの悲劇は有名
なんです。」
「阿闍世をそそのかしたんです
その六師外道というのが
それで非常に後悔したんです。
その悔悟の念に駆られて
苦しんでいるんです。
それを耆婆ギバという医者が
仏陀のところへ連れていくという
話なんです。
そこに人間の回心エシンの道程が
極めて的確に表現されている。」
「つまり、後悔が回心まで
いくんです、懺悔サンゲまで。
後悔は苦しいでしょう。救いがない
けど懺悔は救われる。
懺悔は罪が消えたんではない、
罪を忘れたら懺悔にならん。
罪がなくなれば懺悔にならんし
罪に苦しめられれば、
それは後悔であって懺悔ではない
妙な字で、つまり
浄められた罪です。」
「罪を恐れとって
自分が罪を作りながら
それ否定しようとするような主観
が破れてですね、
そして、
そうすれば罪を引き受けるんだ。
罪そのものよりも、
罪を避けようとする我執が
苦しむんです。」
「そのときに、親を殺したので
六師外道の方へ行くんです
すると、六師外道の方は
何をあんたくよくよしとるんか
今日は顔色が悪いが、
何をくよくよしとるかと
言葉をかけるんです。
そのかけ方がなかなか的確だと
思うんです。
殺したって悩んでいるらしいけど
何、鎌が稲切って鎌に罪があるか
というようなもんだ、
大きな虫が小さな虫を食って
それが悪いと思うか
殺して生きれんのなら
生きとるものは一人も
おらんではないかと。
いらんことにくよくよするなと」
「ところが、
耆婆が訪問した時はどう言ったか
というと、
苦しいでしょうと声をかけた
言葉のかけかたが違う
苦しいでしょうと
阿闍世そのものになって
…
それで仏陀のもとへ連れて行く
初めは一人ずつ馬に乗っていたけど
恐いもんだから
耆婆の馬に乗せてくれというんだ
その恐れは地獄に落ちるという
恐れや。
それで仏陀に遇うた。
…
すると仏陀に遇って帰る時には
人類のために地獄に落ちるのなら
もう喜んで地獄に落ちようと。
こう言う言葉に変わってくる。
…
地獄に落ちても後悔せんんと
これだけの確信をもって
帰ってくる。
地獄に落ちることを恐れていた
人間が、
あえて落ちることを恐れんと、
この変化です。
こういうような変化を与えるのが
宗教心です。
落ちやせんかと思って苦しんどる
落ちた人間は立ち上がるんです。」
何かしらそういうところに
父を殺したという悲劇が
人類のために
地獄に落ちても悔いないという
仏に遇って仏からの福音を聞いて
そういう喜劇に変わっていく
ということです。