陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

レイ・ブラッドベリ 「壜」 その1.

2013-05-30 23:14:27 | 翻訳


The Jar (壜)

by レイ・ブラッドベリ


その1

それはいかにも、寂れたちっぽけな町のはずれにかかった見せ物小屋のテントに並んでいそうなものだった。ありがちな青白い物体が、ビンの中、アルコールの海にたゆたいながら、命のない目玉をこちらにじっと据えて――その実、決して誰のことも見ていない――永遠に覚めない夢を見ている。

夜もふけて物音も途絶え、聞こえてくるのはすだくコオロギの音と、沼沢地でむせび泣くカエルの声だけ。こんなしろものが大きなビンのなかに浮かんでいるのだから、実験室のタンクに切断された腕に出くわしたようなもので、胃袋も驚いて飛び上がるにちがいない。

 チャーリーはもう長い間、目玉を見つめかえしていた。
 長い間、大きな粗野な手、甲の毛深いが、物見高い客を押しとどめるロープをしっかりにぎりしめている。十セントを払ったあとは、ずっとこうして目をこらしている。

 夜がふけていく。メリーゴーランドも動きを落とし、もの憂げな機械音をさせるだけになった。杭打ちの連中がテントの裏でタバコを吸いながら、ポーカーのことで悪態をついていた。ライトが消えて、サーカスを夏の宵闇がすっぽりと包む。三々五々、家路につく人びとの流れが続いていた。どこかで不意にラジオが鳴り出したが、すぐに止む。あとにはルイジアナの広い星の瞬く静かな夜が残された。

 だがチャーリーにとっては、密閉されたアルコールの海にただようこの青白い物体以外には、なにものも存在していないに等しい。ぽかんと開いたピンク色の口元には、歯がのぞいている。目には不思議そうな、うっとりしたような、いぶかしむような色が浮かんでいた。

 背後の闇のなかから急ぎ足で近づいてくる者があった。ひょろ長いチャーリーにくらべると、小柄な男である。
「おや」影の中から、電球の明かりの下へやってきた男が言った。「まだいらっしゃったんですかい?」

「ああ」とチャーリーは言った。まるでたったいま眠りからさめた男のようだ。

 見せ物小屋の主は、チャーリーが興味津々であることを見て取っていた。ビンの中の古なじみにうなずいてみせる。「みんなこいつのことは気に入るんだ。そんじょそこらにはないものだからな」

 チャーリーは長いアゴをさすっていた。「あんた、こいつを売ろうとは思ったことはないかね?」

 見せ物小屋の主の目が大きくなり、やがて細められた。主は鼻を鳴らすとこう言った。「さあてね。こいつ目当てでお客さんは来るからね。みんなこんなものを見たいんだ。そうだろ?」

 チャーリーはがっかりしたようだった。「そうか」

「まあ」見せ物小屋の主は考えながら言った。「金を払おうって客が来れば、どうかな」

「いくらぐらいなら売る?」

「そうさな」主はチャーリーに目を遣りながら、指を一本、また一本と折りながら、見積もっていく。「三、四、いや、たぶん七か八……」

 チャーリーはそのたびに期待に目を輝かせてうなずいた。それを見て取ると、見せ物小屋の主は値をつりあげた。「……まあ、十ドル、いや、十五……」

 チャーリーは眉をひそめ、困ったような顔をした。主はいそいで引っ込める。「いや、十二ドルもありゃ」
チャーリーはにやっとした。
「ビンの中のブツを売ってやってもいいな」と主は締めくくる。

「そりゃ奇遇だな」チャーリーは言った。「おれのジーンズのポケットに、ちょうど12ドルあるんだ。ずっと考えてたんだ。こいつをウィルダーズ・ホローにあるおれの家に持って帰って、テーブルの向かい側の棚に載っけてみたらどんなだろうなって。そしたらみんな、おれのこと、たいしたもんだって思うにちがいない」

「よし。これで決まりだ」見せ物小屋の主は言った。

 かくてビンの売買は成立し、チャーリーは荷馬車の後ろの席にビンを載せた。馬はビンを見ると、落ち着かなげに脚踏みし、いなないた。

 見せ物小屋の主は、安堵に近い色を浮かべて、それにすばやく目を走らせた。「ま、そいつを眺めるのにもうんざりしてたのさ。礼はいらん。最近はここにほかのものを置いたらどうかってずっと考えてたんだ。何か目新しいものをな。だが……おっと、えらく口が軽くなってた。ま、そんなとこだ、じゃあな、田舎の兄ちゃんよ」

 チャーリーは馬を走らせた。裸電球の青い光が、消滅しつつある星のように遠く弱くなり、代わりにルイジアナの田舎の夜の闇が荷馬車と馬を包み込んだ。あたりにはチャーリーと灰色の蹄を規則正しく走らせている馬と、コオロギがいるだけだった。

 そして後ろの座席にのせたビンが。

 ビンの中では、液体が前へ後ろへと揺れていた。タプンタプンとしめった音を立てて。そうして冷たい灰色の物体は、ぼんやりとガラスにもたれて、ゆらゆら揺れながら、外を見ていた。その実、何も、何も見ないまま。

 チャーリーは体を後ろへひねって、ふたをいとおしげになでた。奇妙なアルコールの匂いに、彼は手を引っ込めた。血の気をなくし、冷え切り、ふるえ、興奮した手を。「イエス・サー」彼は心の中で言った。「かしこまりました」

 タプン、タプン、タプン……。



(この項つづく)



英語の勉強

2013-05-02 23:56:49 | weblog
2011年から小学校に英語の授業が導入されて、この春で二年目になる。「コミュニケーション能力の素地を養う」とかいう授業がどのようなものなのか、実のところは知らないのだが、外国人教師が週に一時間か二時間、"Hello, everyone! How are you?" と言う例のやつではあるまいか、と思っている。そんな挨拶だけ、どれだけ勉強したとしても、何の役に立つわけでもないことは、誰もが十分わかっているだろうに。問題は、挨拶をしたそのあとなのである。

以前から、日本の英語教育の弊害を口にする人は多かった。曰く、文法中心でちっとも話せるようにならない、とか、中学から大学まで十年も勉強したのに、話せない、聞けないで役に立たない、とか。そんな不満が小学校からの導入や、「オーラル重視」という流れを生んだのだろう。

ただ、ひとつ疑問なのは、そんなことを言っている人が、現実にいま、過去の学校教育のおかげで困ったことになっているのだろうか。

なんだかんだ言っても、日本で生活している限り、英語とは無縁でいられる。ほとんどの人は英語など不要な生活を送っていて、過去に英語のテストで痛めつけられた苦い記憶だけが残っているから、つい、そんなことを愚痴混じりに言っているのではあるまいか。

ユニクロの社長始め、仕事で英語を日常的に使っている人は、どこかの段階で、相当しっかり勉強したはずだ。わたしもそうだけれど、必要に迫られれば、その必要に応じて勉強し直すよりほかなく、そうなってみれば記憶の隅に引っかかっている切れ切れの文法の知識が、意外と役に立つことを思い知らされたのではないか。少なくともわたしの場合はそうだった。文法というのはゲームのルールと同じで、ゲームを進めていくためには基本的なルールを身につけないわけにはいかない。それだけでゲームで勝つところまではいかないが、ルールを知らなければ、ほかのプレイヤーと同じスタートラインにさえ立てない。

文法なんて必要ない、子供を見てみろ、子供なんて文法など覚えなくても、外国で生活していればすぐに英語を覚える、と乱暴なことをいう人もいるが、これも相当にアヤシイ。実際に見てきた限りでは、子供が大人より早く覚えるということはなく、どれだけ「英語漬け」の環境にあったとしても、ちっとも「自然に」身につけることなどはないのである。まして、両親とも英語が使えない家の子となると、いくら現地の学校に放り込まれても、大人よりもひどいストレスを被ることはあっても、ちっともしゃべれるようにはならない。そんな子供たちは、英語を母語としない子供向けのメニューで、結局英語を文法から勉強していくしかないのだ。

もちろん、文法なんかムダだ! という語学の達人もいる。たとえばトロイの遺跡を発掘したシュリーマン。この達人は、どんな勉強方法で十数カ国語をモノにしたのだろうか。彼はこうやってギリシャ語を習得したのだそうだ。
語彙の習得はロシア語のときより難しく思われたが、それを短時日で果たすために、私は『ポールとヴィルジニー』の現代ギリシャ語訳を手に入れて、それを通読し、この際、一語一語を注意深くフランス語原文の同意語と対比した。この一回の通読で、この本に出て来る単語の少なくとも半分は覚え、それをもう一度くり返したのちには、ほとんど全部をものにした。しかも、辞書を引いて一分たりとも時間をむだにするようなことはしなかったのである。このようにして、私は六週間という短い期間のうちに、現代ギリシャ語をマスターすることに成功し、それから古典ギリシャ語の勉強に取りかかった。(略)

…ギリシャ語文法は格変化と規則動詞および不規則動詞だけを覚えた。一瞬たりとも、文法規則の勉強で貴重な時間をむだにはしなかったのである。(略)私の考えでは、ギリシャ語文法の根本的知識は、実地練習、つまり古典の散文を注意深く読むことと、模範的作品を暗記することだけで身につけることができる。私はこのきわめて簡単な方法に従って、古典ギリシャ語を生きた言語のように学習したのである。だから私は、決して言葉を忘れることなく、完全にすらすらと書き、どんな対象についてもらくらくと思うことを表現することができるのだ。
(ハインリヒ・シュリーマン『古代への情熱――シュリーマン自伝』新潮文庫)
なるほど、さようでございますか。
対訳本を使えば、辞書をまったくひかなくても、一回で単語の半分を覚えて、二回目にはそのほとんどをものにすることができるんだって!!「格変化と規則動詞および不規則動詞だけ」覚えれば、あとは「実地練習」だけで、「完全にすらすらと書き、どんな対象についてもらくらくと思うことを表現することができる」???

いや、確かにその勉強法はシュリーマンには合ったのだろう。勉強法というのは千差万別で、結局のところ、自分に合った勉強法というのは、試行錯誤しながら、失敗を積み重ねながら、自分なりにカスタマイズしていくしかないのだ。『合格体験記』というのがあるけれど、うまくいった人の勉強法を聞いたところで、何の参考にもならない(逆に、「不合格体験記」というのは実際にはないのだが、もしあれば意外と参考になるような気がする。それを避ければよいのだから。少なくとも、人の自慢を聞かされるよりは、失敗談を聞いていた方が楽しいではないか)。

なんにせよ、語学の勉強というのは、時間をかけ、積み重ねていくしかなく、しかも結果は否応なくつきつけられるものなのである。英文は読めないし、話すことが自分の中になければ、挨拶をしたあと、口ごもるしかなくなる。「まだうまく話せないから、話さない」と言っていては、話せるようになる日は永遠に来ない。どこまでやっても、母語としている人の域まで行けないし、レベルの差はあれど、失敗はつきもので、恥はかきつづけなければならない。とにかく勉強というインプットだけでなく、アウトプットをし続け、その結果を自分で受け止める。恥をかき、ほぞをかむその向こうに、自分の勉強の足りないところと、うまくいったところが見えてくるのだ。

がんばっていきまっしょい。


直感は信じない

2013-04-30 23:33:46 | weblog
以前、骨董品やコレクションを鑑定をする番組で、鑑定をする人が、借金のカタや「ピンと来た」と言って買ったものはたいていニセモノ、と言っていて、なんだかとてもおかしかったので、いまでもよく覚えている。

こんな場面が目に浮かぶ。夜、知り合いがやってきて、いまちょっと手元不如意で、とか、資金繰りが苦しくて、などと言いながら掛け軸や絵や茶器を出してくる。その代わりといっては何だが、これを預かっておいてもらえないか、と。先祖代々伝わるもので、良い物なんだが……ともったいをつけながら、近いうち、かならず返すから、と言いながら、用立ててもらったお金を懐に。ところがその「近いうち」は一向に来るようすもなく、その「カタ」は行き場を失って押し入れに眠ったまま。果たしてほんとうに値打ちのあるものなのだろうか、貸してやったお金に引き合うほどのものだろうか。そうだ、TVで鑑定してもらおう……。

考えてみればそんなものが二束三文というのもあたりまえの話で、もしほんとうに良い物なら、預けっぱなしになるはずもなく、そもそもほんとうに借金のカタにできるぐらいの価値のあるものなら、骨董屋だの古物商だので現金に代わっている。相手も、二束三文だろうと半ば思いながら、そんなものを持ってきて、借金を頼むほどせっぱ詰まっているのなら、と用立ててやるのだろう。

もうひとつの「ピンと来た」がニセモノ、というのも、なんとなくわかるような気がする。
自分のことをふりかえっても、衝動買いばかりではない。これまでの経験で、失敗したときというのは、ほぼまちがいなく拙速な判断の結果だ。

二者択一を迫られ、ああでもない、こうでもない、と慎重に考え、さまざまな情報を集め、周囲の状況を観察した結果の判断なら、実際のところ、どちらを選んでも、その結果がさほど困ったことにはならないのだ。あとになって苦い思いをするのは決まって、うかつに決めてしまったときである。

もちろん「ピンと来た」ことがうまくいったこともあるだろう。けれどもその「直感」というのは実際のところ、その時のちょっとした気分とか、感情にほかならない。そうしてわたしたちの判断の根っこにあるのは、その「直感」である。

けれども、そこからわたしたちは理由を考え、理由が依拠する理論を考えて、その判断を整ったものにしていく。客観的な情報を集め、それによって判断に加わった自分のバイアスや思い込みや、こうあってほしいという願望を取り除いていく。

司馬遼太郎の『城塞』だったと思うが、徳川家康の特異な点は、自分を突き放して見ることができることだった、とあったように思う。「自分を突き放す」というのは、結局のところ、自分の判断をゆがめてしまう自分の思い込みや願望をどれだけ抑えることができるか、ということだろう。自分の癖を知り、自分を取り巻く人間関係から一定の距離を取り、ものごとを俯瞰的に眺めるということを日常的におこなう。言葉にすれば簡単だけれど、「特異」という言葉は、実際にそれをすることがどれほどむずかしいか示している。

昔は、どちらかを選ぶことが怖かった。どちらを選んだら良いかあれこれ迷って、ああでもない、こうでもない、とずいぶん考えたものだ。けれどもそうした経験をいくつかくり返し、いまではしっかり考えた結果なら、どちらを選んだとしても、「あのときああしたら良かった」と後悔することはない、と思うようになった。

後悔するのは、「ピンと来た」り、衝動に負けたり、こうあってほしい、という願望を「客観的な見方」と取り違えてしまっていたり、単純に知識が欠けていることを知らなかったりするような場合だ。問題なのは、そのときにはそんなことに気がつきもしないことなのだが……。

少なくとも「直感」は信用しない。ピンと来ても、それはきっと気のせいだ。そう思っている限り、骨董のニセモノをつかまされる恐れはないはずだ。まあ、幸か不幸か、骨董を買う予定は当分ありそうにないのだが。



「あれ」でもなく、「これ」でもなく

2013-04-10 22:52:48 | weblog
お昼ごはんを食べていたら、隣の席で女性がふたり、例の洗脳された芸能人がテレビ復帰すべきか否かについて、ずーっと語り合っていた。おかげでわたしもすっかりその情報に詳しくなったのだけれど、その芸能人の話ではなく、洗脳の話でもなく、それをきっかけに気になったことがあったので、今日はそのことを。

考えてみればおかしなことだけれど、わたしたちは自分に利害関係はまったくなくても、ふたつのことが対立する構造にあると、つい、どちらかに肩入れしてしまう。占い師による洗脳がまだ続いていようがどうだろうが、わたしたちにとっては痛くもかゆくもない話だ。でも、それを話している人は、そのことに対して自分の意見を持ち、相手にも同意してもらおうと、さまざまな情報で裏付けながら、熱をこめて話をしていた。そうして、その人と何の関係もないわたしまでも、すっかり説得されてしまって(笑)、洗脳と依存と友情のあいだに線を引くのは意外とむずかしいものなのかなあ、などと思ってしまったのだ。

たとえ自分に何の知識もなく、興味もなく、まったく関係がなくても、わたしたちはつい、「あれかこれか」と考え、「あれ」よりは「これ」の方が好ましい(正しい)、と考える。というより、自分には関係ないから、そのことはよく知らないから、興味がないから、と、どちらにも肩入れせず、等しく距離を置くことは、思っているよりずっとむずかしい。

ところで、最近では学校の授業で「ディベード」を扱っているのはご存じだろうか。この「ディベード」のおもしろいところは、論者が自分の立つ側を選ぶのではない、という点だ。

「原発か脱原発か」「死刑制度は廃止すべきか否か」「小学生に携帯(ゲーム機)を持たせるべきか」「高校生のアルバイト」「救急車を有料化すべきか否か」……など、まず論題が与えられると、それについて各人がどう思っているかとはまったく無関係に、「Yes」の側と「No」の側に割り振られ、それに従って資料を集め、自分の意見を作り上げ、それに対する批判点を予測し、批判に対する回答を準備していく。

そうしていくうちに、たとえそれまでそんなことを考えたことがなくても、割り振られたことによって自分の考えができていく。ディベードに勝つために始めたことが、自分の考えを方向付け、やがてそれが自分の意見になっていくのである。

このことを考えると、わたしたちが日ごろばくぜんと、「自分の意見」と思っていることは、ほんとうに自分自身が考え、選び取ったものなのだろうか、という気がしてくる。「あれかこれか」とふたつ立場があるうちの、その一方を、さしたる根拠もなく肩入れした結果、いつのまにかそれが「自分の意見」になってしまってはいないだろうか。

シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』に、こんな場面がある。
ブルータスがシーザーを暗殺する。例の「ブルータスよ、おまえもか」である。なにしろ当時のシーザーときたら、ローマ市民の英雄だったから、市民たちは黙ってはいない。ブルータスにどうしてそんなことをしたのか、公開の場で説明してくれ、と要求する。

ブルータスは言う。自分がシーザーを刺したのは、シーザーを愛さなかったためではない、独裁者となって、市民を奴隷としようとするシーザーの野心を知って、シーザーに対する愛よりも、ローマに対する愛の方が勝ったがゆえに、シーザーを刺したのだ、と。

市民はすっかりそれに説得されてしまう。シーザーの遺体が運ばれてきて、ブルータスが
 私はローマのために最愛の友を刺した、その同じ刃を、もし祖国が私の死を必要とするならば、みずからこの胸に突きつけるだろう。

と言うのに対し、このように答えるのである。
市民一同  死ぬんじゃない、ブルータス、生きてくれ!
市民1   万歳を叫んでブルータスを家まで送ろう。
市民2   ブルータスの像を建てよう、先祖の像と並べて。
市民3   彼をシーザーにしよう。
市民4   ブルータスならばシーザーの美点だけが王冠をかぶることになるぞ。

アントニーがそこに登場する。そうしてシーザーが捕虜の身代金をすべて国庫に収めたこと、王冠を三度までも拒絶したことをあげ、シーザーに果たして野心があったのか、と市民に問う。さらに、シーザーは遺言状に、死後は自分の財産をローマ市民に分け与えると記している、と告げるのだ。すると市民の態度は豹変する。
市民1   ああ、痛ましい姿だ!
市民2   ああ、気高いシーザー!
市民3   ああ、なさけないことに!
市民4   ああ、謀反人め、悪党め!
…略…
市民一同  復讐だ! やれ! 捜せ! 焼きうちだ! 火をつけろ! 殺せ! やっつけろ! 謀反人を一人も生かしておくな!

さっきまで英雄だったブルータスも、アントニーのひとことで「謀反人」の「悪党」になってしまうのだ。

もちろんこれは戯曲だし、現実に生きる人びとのカリカチュアライズではある。けれども、実際にわたしたち自身が、ほんの些細なことが原因で、ある人の評価が一方の極から一方の極へと、大きくふれてしまうことはないか。しかも、それが自分の利害に直結するようなことなら、なおさらわたしたちは「市民 n」になってはいまいか。

どちらが「正しい」のか、その場ではわからないことが多い。にもかかわらず、わたしたちは「あれ」よりも「これ」の方が正しい、と、いとも簡単に判断してしまい、さまざまな理由でそれを補強し、いつのまにかそれがほんとうに正しいとする。けれども、その判断がどれほど正しいのか、何らかのバイアスがかかっていないのか、実際にはなかなかわからない。

少なくとも、「対立するふたつのことがらに対して、等しく距離を取る、もしくは、どちらにも与しない」ことは、わたしたちにとって大変むずかしいことである、という意識だけは、頭の隅にとどめておきたいと思うのだ。

もちろん、これすらも「あれかこれかの一方に、簡単に飛びついてしまうか否か」というふたつのことがらの一方に過ぎないのだが。




ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」 最終回

2013-04-03 23:34:45 | 翻訳
最終回



雄鶏が罠の入り口に達し、決定的な一歩を踏み出そうと蹴爪を持ち上げたちょうどそのとき、老人はサミュエルズ夫人のすぐそばまで来ていた。あまりに近かったので、夫人のあえいでいるかのような、熱に浮かされた吐息が聞こえてくる。夫人の心臓が「いまだ!」と指先に命じ、腕の静脈が青く浮き上がるほど強く指が固く握りしめられたとき、老人は夫人の頸椎、頭と首との境目、小さな骨がつながっているその箇所めがけて、もうずいぶん長いこと手元に置いていた狩猟用ナイフを振りおろした。

一切が静寂のうちに進んだ。ぐったりした夫人の手から、するりとひもが滑り落ちたかすかな音がしただけだった。やがて老人の耳に、外の罠のとびらが木の床を叩くガタガタという音が聞こえてきた。それにあわせてサミュエルズ夫人のぼさぼさの頭が胸元にがっくりと垂れる。老人は窓越しに、罠の扉ががたんと降りて、驚いた白い雄鶏が少しだけ後ろへ飛び退くのを見た。そうして雨の中で一声、高らかにコケコッコーと鳴くと、どこかへ歩いていったのだった。

 老人はしばらく静かにすわっていた。それからサミュエルズ夫人に語りかけた。
「あんたは絶対に、ほかの方法では殺れなかっただろうな、マーシー・サミュエルズ。わしの息子のかみさんよ。あんたはこうなるしかなかったんだ。狩猟用ナイフを使うしか」

 それから老人は車いすを乱暴に走らせて、マーシー・サミュエルズの家の中を、部屋から部屋へと走りまわった。内側からこみあげる熱狂に身を委ね、束縛から解き放たれ、気の向くまま。吠えるような笑い声をあげ、ときおり激しい咳の発作に襲われながら、やかましい音とともに部屋から部屋へと暴走した。車いすの車輪をまわしながら、ひとつひとつ部屋に入っていっては手の届くものすべてを破壊する。台所ではつぼも鍋も放り投げ、小麦粉や砂糖の竜巻を起こし、居間では椅子をひっくり返し、クッションを引き裂いて、中の詰め物をまき散らした。わらや小麦粉にまみれて真っ白い、気の狂った幽霊のような姿で寝室に入り、壁紙を剥いでぼろぼろにした。咳き込みながら咆哮をあげ、突撃し、自分の手でこの家をめちゃくちゃにしてやった、と思えるまで徹底的に破壊しつくした。



 ワトソンが帰ってきた。すぐに自分が仕掛けた罠の首尾を確かめに行こうと思い、雄鶏を絞める腹も決めていたのだ。ところが一目見たとたん、自分の家がこんなに荒らされたとは、竜巻にでも襲われたか、それとも泥棒にやられたか! と思った。

「マーシー! マーシー!」と呼んだ。

「父さん! 父さん!」

 だが、その声に応える者はいない。老人の部屋でワトソンが見たのは、車いすに乗った老人の亡骸だった。どうやらひどく争ったあげくに息絶えたものらしい。ひどい咳の発作に襲われたらしく、ふくれあがった首の動脈が破れて、あふれ出した血は、まだぶくぶくと、まるで小さな赤い噴水のように吹き出していた。

 やがて近所の人びとがこの家へ足を向け始めた。騒ぎを聞きつけ、庭に集まってきたのだが、ワトソン・サミュエルズの家の惨憺たる状況を見て、誰もみな、ものも言えないほど驚いてしまっていた。そうしてワトソン・サミュエルズはその崩壊のただなかに立ったまま、何が起こったのか、その片鱗すら説明できなかったのである。


The End




※ いやいや、ずいぶん間があいてしまいましたが、やっと終わりました。
そのうち手を入れてサイトにアップするのでお楽しみに、といって、あまり楽しい話ではないのだけれど。

これからも、まあぼちぼちと自分のペースで続けていくので、どうぞもよろしく。