西條奈加著『心淋し川(うらさびしがわ)』(2020年9月10日集英社発行)を読んだ。
江戸、千駄木町の一角に流れる「心淋し川」。その小さく淀んだ川のどん詰まりに建ち並ぶ古びた長屋で、もがき、懸命に生を紡ぐ人たちの全六話。【第164回直木賞受賞!】
「心淋し川」
千駄木町の一角は心町(うらまち)と呼ばれ、小さな川が流れ、両脇に立ち腐れたような長屋が四つ五つ固まっている。心川(うらかわ)は止まったまま、流れることがない。
ここで生れ、育った19歳の“ちほ”は、川沿いの狭い町にも、この家にも心底嫌気がさしていた。酒を飲んでは怒鳴りつける父・荻蔵、愚痴が絶えない母・きん。ここを出たら、二度と戻りたくない。姉の“てい”は鮨売りの男の子どもを作って出て行き、浅草で所帯を持った。
“ちほ”は請け負った仕立物を届け、いつものように手代に嫌味を言われ、そのまま上絵師の元吉を待つ。あの人となら、苦労すら厭わない。あの人なら、あたしをこのうらぶれた町から連れ出してくれる。
「閨仏(ねやぼとけ)」
青物卸の大隅屋六兵衛は古びた一軒家に、見た目が悪いおたふくの妾を4人も囲っていた。行き先だけが不安な30過ぎのおりき、焦りから不満たらたらの29のおつや、まだ若いおぶんと、おこよ。おりきは、六兵衛が持ち込んだ木の張方をながめているうち、悪戯心から小刀で先端部分に仏像を彫りだし、すぐに夢中になった。やがて仏師の郷介と知り合うことになる。
「はじめましょ」
すべて四文で方がつく飯屋「四文屋」を稲次から引き継いだ与吾蔵は、仕入れ帰りに立ち寄る根津権現で、小さな女の子の唄声を聞く。かつて与吾蔵が捨てたおるいがよく口にしていた唄だった。声をかけた与吾蔵は少女と遊ぶようになったが、…。
「冬虫夏草(とうちゅうかそう)」
冬虫夏草とはキノコと虫が合体したもので、冬は虫であったものが、夏には草となることから名付けられた。
吉はサクラの枝の陰に羽化することなく死んだ蛾を見て、これは私だと思った。かって大店のおかみだった吉は、貧乏長屋住まいの中、大怪我で歩くことも立つこともできなくなった息子の富士之助に暴言を言われながら献身的に世話していた。
「明けぬ里」
“よう”は亭主の桐八と一緒になって2年になる。桐八はさほどの腕がない職人で、親方に怒鳴られどおしで博打に走り、気の強い“よう”と派手な喧嘩ばかりしていた。ようが出先で「葛葉ちゃん」と呼びかけられた。根津権現の遊郭で吉原にも勝るとうたわれ、身請け代は二千両とも言われた明里だった。ようは馴染の隠居が61両で身請けしてくれたが、その後は面倒を見ないと言われ、手紙を出したら桐八が飛んできたのだ。心町の長屋はボロ屋だったが、ようが初めて見つけた居場所だった。ようのお腹にはややがいて、すべてに恵まれたような明里にも……。
「灰の男」
忘れたくとも、忘れ得ぬ思いが、人にはある。
悲嘆も無念も悔恨も、時のふるいにかけられて、ただひとつの物思いだけが残される。
虚に等しく、死に近いもの――その名を寂寥という。
こう始まるこの話は、前のすべての話に登場した面倒見のよい差配の茂十と、六兵衛長屋の裏手の物置小屋にいて楡の木の下で物乞いする惚けた楡爺(にれじい)の因縁物語だ。
茂十が50年以上のつき合いという会田錦介と料理屋で会い、かって江戸を騒がせた地虫の次郎吉を思い出すところから話は始まる。
初出:「小説すばる」2018年7月号~2019年11月号
私の評価としては、★★★★★(五つ星:読むべき、 最大は五つ星)
しみじみと心に沁みる話が続く。どぶ川のふもとの薄汚い貧乏長屋でたいした希望もなく暮らす人々。ここから抜け出す算段をする人がいる一方で、辛い過去を背負った人が生きなおすには良い場所なのだという。
従来、私が小説を読むときには、情景描写など邪魔で、「はい、はい、貧乏長屋ね。辛いのね、分かった、分かった。それで?」とじれったく思っていた。しかし、この小説では、澱んだ心川の情景がなくては人々に姿が立ち上がって来ない。小説というものは人を描くものなのだろうが、周辺の住まいの中での暮らしがあっての人だと、当たり前のことをあらためて教えてくれた。どぶ川の匂い、長屋の喧噪を感じる。
全体が静かなトーンで進み、最後の「灰の男」の話で盛り上げたのだろうが、派手な立ち回りのある話はもう少し抑えてくれた方が、最後までしみじみとして良かったのではとも思った。
西條 奈加 (さいじょう・なか)
1964年北海道中川郡池田町生まれ。東京英語専門学校を卒業して貿易会社勤務。
2005年『金春屋ゴメス』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。
2012年『涅槃の雪』で中山義秀文学賞
2015年『まるまるの毬』で吉川英治文学新人賞
2021年『心淋し川』で第164回直木賞を受賞。
時代小説から現代小説まで幅広く手がける。
他、『善人長屋』『無花果の実のなるころに お蔦さんの神楽坂日記』『亥子ころころ』『せき越えぬ』『わかれ縁』などがある。
お勉強
塒:ねぐら
瘧:おこり。マラリア性の熱病の昔の名称。一定の周期で発熱し、悪寒やふるえのおこる病気。
にわか拵え(こしらえ)