hiyamizu's blog

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「自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門」を読む

2008年01月06日 | 政治
森村進「自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門」講談社現代新書を読んだ。リバタリアニズムについてご存知ない方は是非一読されて、その極端な考え方に触れ、あらためて社会、国家のあり方について考えてみるのも良いと思う。
2001年発行と少し古い本だが、理論的(仮想的)本だから、今でも十分読める。

私はかねてより、国家に何かして欲しいなどと期待してはいけない、それどころか、国家などというものは放って置けば悪いことをするものなので、国民は常に監視していなければいけないと思っている。国家など本来的にはなくても良いと思うが、しかし、いきなりそうもいかないので、徐々に国防、治安、福祉など最小限の機能に絞るべきと思う。そして、黙っていると、例えば国防も、国民を脅してどんどん肥大化しようとするので、常に監視し、制約を与えなくてはいけないと考えている。

私はこの本を読むまで、リバタリアニズムなる思想をまったく知らなかったが、基本的には私の考え方に極めて近い。現実を無視した理想論ではあるが、基本的考え方、今後の方向性としてもっと議論されるべきだと思う。

リバタリアニズムには、極端から現実的などいろいろな考え方があるようで、この本には極めて簡潔に種々の主張と、その差が要領よくまとめられている。
ただし、多種類のリバタリアニズムの分類に主体が置かれており、リバタリアニズム全体像がつかみにくい。記述の仕方も、あるテーマについて、リバタリアニズムの中のいろいろな考え方を述べ、最後に著者自身の考えを述べてから、また次のテーマに移ることが多い。代表的な、あるいは著者自身の考えで、全体を述べてから、各テーマごとに異なる立場を説明した方が分かりやすかったのではないかと思う。



リバタリアニズム(libertarianism、形容詞はリバタリアンlibertarian)とは、他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきで、経済や社会に対する国家の介入を否定もしくは最小限にすることを主張する政治思想だ。
ただし、国家権力をどこまで認めるか(無政府主義、国防・裁判・治安維持のみ、極最低限の行政サービスのみ)、市場重視か、社会連帯重視かなどによって各々のリバタリアンの主張には大きな幅がある。

よくあるリバタリアニズムの説明としてこの本にも、あげられているのが下図だ。




図にあるように、個人的自由を尊重するが、経済活動への介入や財の再配分を援護するのが「リベラル」、とくに「福祉国家リベラル」であり、個人的自由への介入を認めるが、経済的自由は尊重するのが「保守」である。いずれも尊重しないのが権威主義(極端となると全体主義)と分類できる。著者は、日本の保守者は規制緩和に反対する傾向があるので、「保守派」というより「権威主義者」と書いており、同感だ。

リバタリアニズムは国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対する。国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的役割しか持たない。民族的アイデンティティの価値を認めるのは個人の自由だが、国家の介入は不当である。国家が教育の場で特定のライフスタイル(禁煙運動、一夫一婦制など)、歴史観を押し付けることを排除する。

経済学、哲学、法理論など幅広い立場からリバタリアニズムに関する議論がもっと盛んになされるべきと思う。


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