11月3日(土)、フィールドワーク「中島飛行機武蔵製作所と武蔵野の空襲の跡を歩く」に参加した。
集合は武蔵野市役所。
主催の「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」から2時間半ほどのコースの説明がある。参加者は20名ほど。20代とおぼしき人が3名ほどいたが、60代以上が大部分で、語り継ぐ難しさがわかる。92歳の方もいて、頭がさがる。
まず、武蔵野市営グランドへ。グランド一杯にゴルフクラブを振りまわす人たちが広がる。
平和な光景だが、ここでも防空壕に250トン爆弾が落ちて約30名の人が亡くなったのだ。今の4中が当時中島飛行機の青年学校でその職員、学生が生き埋めになった。ここには高射機関砲が並び、一時は不発弾置き場となっていたという。中島飛行機に勤めていた方の当時の話を聞きながら、楽しげなグランドを眺めると、何か幻のように思えてくる。
クリーンセンター、要するにゴミ処理場からNTTの研究所へ向かう。間の道路の下には今も工場の地下通路が走っているはずという。
さらに進むと、道路が左に湾曲している。この左には、戦後、プロ野球も行われた(といっても16試合のみ)東京スタジアムという野球場があったためだ。
NTTの研究所を塀の外からのぞく。下の写真の建物は壁面が新しくなっているが中島飛行機のボイラー室で、現在は体育館として使われている。
2001年に取り壊されるまで、この研究所の2号館、3号館は中島飛行機の建物を改修したものだった。2号館の残っていたエレベーターはエンジンを運ぶための大きなもので、ドアは蛇腹で、完全手動だった。床面が近づくと上り下りのスイッチを入れたり切ったりして丁度良い高さに調節するのが、面白くもあったのを思い出す。
当時、ときどき不発弾が発見されて、午後からは休みなどとなり、ただただ浮かれて新宿などに繰り出したものだった。
都営緑町住宅の道路をふさぐようにシラカシの木がある。戦争を生き抜いたのに、最近立ち枯れてしまった。
中島飛行機の建物で、現在残る唯一のものが都営武蔵野アパート管理事務所だ。当時の変電室だが、改修されて面影はなく、保存対象になっていない。(その後、保存のために活動もむなしく、この建物は破壊されてしまい、現在、中島飛行機の当時の建物は全く残っていない。)
都立武蔵野中央公園、通称原っぱ公園は、当時武蔵製作所西工場だった。ここには「武蔵野平和の日」の説明板がある。日本ではじめて本格的な空爆を受けたのが中島飛行機のあった武蔵野市で、その日、11月24日を「武蔵野平和の日」としたのだ。
記念樹の説明板には、長崎の被爆地で枯れたあと芽を出した被曝クスノキの種から育てられた苗を植えたと書かれていた。
ここでも、当時爆撃を受けた方から生々しい話があった。写真中の写真は西工場で、空爆で破壊された箇所を指し示している。
このあと、武蔵境駅から中島飛行機への引き込み線の跡、現在は遊歩道を訪ねた。
米軍の空爆は1万メートル上空からのもので、工場周辺も被曝して多くの方が亡くなった。延命寺には檀家の方で戦死した方、戦災で亡くなった方を悼み、名前を刻んだ平和観音像が建立されている。
傍らには、250kg爆弾の不発弾があり、
エンジンの試運転に使われた木製のプロペラがある。
源正寺には、身元不明の遺体の供養のための「倶会一処」(くえいっしょ)の碑があり、
爆撃により破壊され、あえてそのままにしている墓石や、傷つけられた墓石がある。
戦争の悲惨さを語り継いでいくためにも、なんらかの形で愚かな戦争の跡を残して行く事は大切だと思った。また、実際に空爆を受けた方々の話を聞いて、幼いころに父母や親戚から聞いた戦災の話を思い出した。
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