NHKスペシャル取材班/山辺昌彦著『東京大空襲 未公開写真は語る』(2012年8月10日新潮社発行)
3月10日は1945年の東京大空襲の日。本三冊を読んでみた。
今回は、写真・文 石川光陽『グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録』に次いで2冊目。
新潮社の内容紹介(現在はみあたりません)
戦後67年、誰の目にも触れることのなかった大量の空襲写真が発見された!
「今は無視されても、50年後、100年後に評価される写真を撮ろう」──木村伊兵衛率いる陸軍の宣伝機関「東方社」の写真家たちが、自らの良心と使命感に迫られて撮影し、今日まで発表されることのなかった大量の写真群。学校や神社、病院まで含めた、被爆直後の無残な市街地の様子を記録した、米軍の無差別爆撃の実態を証す写真集。
B5版 160頁で、ほとんどが写真で、文が少々。
東京大空襲を記録した映像資料は、石川光陽氏が撮影した33枚の写真を除いてほとんどなかった。2011年、都内の写真店の押し入れから「空襲」を生々しく切り取った583枚の未公開写真が見つかり、東京大空襲・戦災資料センターの山辺昌彦氏ら研究者の手に託された。NHK取材班は、山辺氏と共同で写真の取材にとりかかった。
2012年3月にNHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」として放送し、一枚一枚の写真の背後に秘められた物語を掘り起こした記録を刊行した。
今回発見されたのは、陸軍傘下の「東方社」に属していたカメラマン達が撮影した写真で、率いていたは昭和を代表する写真家・木村伊兵衛氏だった。彼らは報道カメラマンとして歴史を伝え残したいという一念で、命がけの写真も多い。
炎と煙が街を飲み込み、人々が必死で避難する中で、懸命に消火にあたる人の様子や、焼け野原の中で、何もかも失っても頑張るしかないと、立ち上がろうとする人たちの写真が並ぶ。
当時は戦意高揚が優先で、このような悲惨な写真を撮ることは難しく、戦後もそのような記録が処分されたことを思えば、このような写真が残っていたことは、奇跡的だった。
1945(昭和20)年3月10日、1晩で十万人の命が失われた東京大空襲。しかし、空襲はこの日だけではない。昭和19年秋から20年の終戦間際にかけて、のべ100回以上、半年余り続いていた。しかも、3月10日以前は「軍事施設しか攻撃していない」と思い込まされてきたが、実際には、空襲の初日から、米軍は市民を標的にした無差別攻撃を行っていたことが改めて実証されたのである。
米軍は緻密な計画を積み上げた末、用意周到に東京の街を焼き尽くしていったのだ。
B29による空襲は一定区域を無差別に完全に破壊し尽くす皆殺し攻撃だ。
1943(昭和18)年に米軍が作成した「日本焼夷攻撃データ」には、たとえば東京の場合、市街地のどの部分が燃えやすいかを詳細に分析し、……地図が存在する。…燃えやすい木造家屋が密集する下町一帯(が赤く塗りつぶされていた)だった。
いかに効率よく燃やすかについても、米軍は綿密な実験を行っている。アメリカ西部のユタ州の砂漠の中に……木造の日本家屋が立ち並ぶ街並みを建設した。室内にも襖は障子、卓袱台や座布団まで設え…。ここに実際に焼夷弾を投下し、データをとりながら、何度も燃焼実験を繰り返した。
開発された焼夷弾がM69で、建物や人体に付着する増粘剤を加えた油脂がナパーム弾だ。
対する日本はバケツリレーの訓練だった。
(p132-133に焼夷弾、下町と中島飛行機武蔵製作所が示された地図、実験場の日本家屋の写真がある)
私の評価としては、★★★★★(五つ星:読むべき、 最大は五つ星)
この写真集は、破壊された建物、家屋などの写真はあるが、焼死体などの残酷な写真はない。そして、戦禍の下で笑顔を見せる若い人の姿や、焼け跡の中でバラックを建てている写真など希望を感じさせる写真など、戦争中の逞しい銃後の暮らしを伝える写真もある。
米軍側の資料を探し出した部分もある。その結果、戦争というものは、敗者はもちろん、勝者も残酷になるものなのだと改めて思った。
米軍がいかに効率よく焼くか、砂漠に家具を備えた日本家屋群を立てて、焼夷弾攻撃実験を繰り返し、燃え広がりやすい地域(東京の下町)を地図に示し、リレーしたバケツの水程度では消えない焼夷弾を開発した。ターボエンジンを備え空気の薄い高度1万メートルでも飛べるB29を開発し、敵機が上がって来られないので兵器類を外し、焼夷弾で満杯にして襲い掛かってきたのだ。その成果として3月10日一日で10万人を殺すことに成功した。
言いたいのは、アメリカが残酷だということではない。戦争が残酷なのだ。
対する日本の指導者は「精神一到何事かならざらん」だった(あくまで過去の話ですが?)。
ウクライナのゼレンスキー大統領が、大局的判断ができる人であることを切に願っている。