押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員) 晴 中日新聞

2021-09-28 15:40:12 | 定年後の暮らし春秋

押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員)

2021年9月26日 中日新聞

今年四月に三十九歳で亡くなった押富俊恵さん(愛知県尾張旭市)は、作業療法士の在職中に重症筋無力症を患い、支援する側の立場も理解する重度障害者だった。彼女が目指した「弱者が生きがいを持てる」社会を考える。

 「死にたくなければ一生食べるな。食べたいなら声はあきらめろ」
 押富俊恵さんが主治医からこんな言葉をぶつけられたのは、二十七歳の時だった。
 重症筋無力症に合併した誤嚥(ごえん)性肺炎や敗血症で、入退院を繰り返してきた。誤嚥をなくすには、唾液が気道に入るのを防ぐ喉頭(こうとう)気管分離手術をするか、胃ろうからの栄養補給だけで、体力の低下を覚悟するしかない。医師が勧めたのは分離手術だが、空気が声帯を通らなくなるため、話す力を失ってしまう。
 押富さんは「そんな重大なことを突然言われても」と戸惑った。看護師たちも相談に乗ってくれず、一人で考えた末、手術を断った。話せないと復職の夢も絶たれるし、意思を伝えられなくなることに「恐怖の体験」があったからだ。

患者の尊厳は口先?

 院内で痰(たん)がのどに詰まって意識不明になり、救命のために気管切開した後のこと。まぶたが下がって目が開かず、人工呼吸器に妨げられて声も出ず、全身の脱力で筆談もできなくなった。神経難病の世界では、意識も感覚もあるのに伝える手段がないことを「完全な閉じ込め状態」と呼び、患者たちが恐れているが、それに近い状態に陥ったのだ。その時、医療者たちは押富さんへの関心をなくした。
 医師は声をかけることもなく、黙って点滴の針を刺した。看護師たちは押富さんの体を拭きながらプライベートな雑談を始めた。作業療法士も黙々と関節をほぐして帰っていった。
 すぐに回復できたが、不信感が残った。「命を守ることが最優先」「信頼関係が大事」と言っている医療者が、患者の尊厳を大切にしているのだろうかと。
 押富さんにとっては、入院中は患者だが、家に帰れば生活者として充実した時間があった。
 歩行や嚥下(えんげ)のリハビリに全力投球する一方、誤嚥を防ぐ「おいしい嚥下食」のメニューを考え、母たつ江さん(69)に作ってもらった。趣味の手芸にも打ち込んだ。二〇〇九年、二十八歳の夏には、高校の仲間の結婚式に酸素ボンベなしで松葉づえを使って出席し、おしゃべりや食事を楽しんだ。

医師の涙に手術決意

 だが、また再発して別の病院に緊急入院した。一時は生死の境をさまよう重症だった。
 担当した医師はやはり分離手術を勧めた。「敗血症を繰り返すたびに救命の可能性が下がる。今のうちにやるほうがいい」。前の病院とは違い、丁寧な説明だった。付き添ったたつ江さんは、医師の涙を覚えていた。文字盤を使い「ほかにほうほうはないの(か)」と泣きながら訴える押富さんに、説得する側の目も真っ赤だったのだ。
 一週間考え、イエスの返事をした。「医療職の関わり方が患者の決意を後押しするのだと、身をもって学びました」と一三年の「作業療法ジャーナル」の連載で書いている。
 そして、奇跡が起きた。
 体調が回復してきたある日、ベッド上で「口パク」のように舌や唇を動かしているうち「口やのどにある空気を使って音が出せるかも」と、ふと思った。空気を吸い込めないから、大きな音は出せないが、看護師を相手に練習するうち、だんだん思うような響きを出せるようになって、意味のある声に変わっていった。この独自の発声法、多くの患者の福音になりそうだが、うまく説明できないという。昨年九月に、私がやり方を尋ねたとき「懸命なリハビリというより、気楽に気長に続けることで、今に至ります。いろいろな方法で呼吸器を着けていても話す方はいますが、私みたいな方法で話す人はまだ会ったことがないですし、医師も不思議がっていますよ。たぶんすごく稀(まれ)です」と返事のメールをもらった。
 この「気楽に気長に」がポイントかもしれない。
 一二年のブログでは「声と呼べない口パクのようなもの」と記し、併用する文字盤では気持ちが伝わりにくいと嘆いていた。
 それが一五年になると「パソコンって言うと、50%近い確率で『ばんそうこう?』って聞き返される」「今日は『血、止めているの』って言ったら、シートベルトだと思われた」と聞き間違いをされた体験をおもしろがっていた。
 一九年に私が知り合った時には、声量はないが明瞭で聞き直す必要のない精度だった。講演では文字をスライドに映して読み上げていたが、なくても十分に伝わると思えた。
 二〇年に押富さんをインタビューした湘南医療大教授の田島明子さん(作業療法学)は「楽しむことに何よりも価値を置き、そのためにとことん頑張れる人」と評する。市民団体を立ち上げ、障害者と健常者が集う「ごちゃまぜ運動会」などのイベントを企画し、地域でのつながりを広げていったのも、電動車いすで遠方まで講演に出掛けたのも「楽しいから」。
 楽しむために努力を重ね、発声障害のバリアーを乗り越えたのだ。
 
 

 


押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員) 晴 中日新聞

2021-09-28 15:31:19 | 桜ヶ丘9条の会

押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員)

2021年9月26日 中日市新聞

今年四月に三十九歳で亡くなった押富俊恵さん(愛知県尾張旭市)は、作業療法士の在職中に重症筋無力症を患い、支援する側の立場も理解する重度障害者だった。彼女が目指した「弱者が生きがいを持てる」社会を考える。

 「死にたくなければ一生食べるな。食べたいなら声はあきらめろ」
 押富俊恵さんが主治医からこんな言葉をぶつけられたのは、二十七歳の時だった。
 重症筋無力症に合併した誤嚥(ごえん)性肺炎や敗血症で、入退院を繰り返してきた。誤嚥をなくすには、唾液が気道に入るのを防ぐ喉頭(こうとう)気管分離手術をするか、胃ろうからの栄養補給だけで、体力の低下を覚悟するしかない。医師が勧めたのは分離手術だが、空気が声帯を通らなくなるため、話す力を失ってしまう。
 押富さんは「そんな重大なことを突然言われても」と戸惑った。看護師たちも相談に乗ってくれず、一人で考えた末、手術を断った。話せないと復職の夢も絶たれるし、意思を伝えられなくなることに「恐怖の体験」があったからだ。

患者の尊厳は口先?

 院内で痰(たん)がのどに詰まって意識不明になり、救命のために気管切開した後のこと。まぶたが下がって目が開かず、人工呼吸器に妨げられて声も出ず、全身の脱力で筆談もできなくなった。神経難病の世界では、意識も感覚もあるのに伝える手段がないことを「完全な閉じ込め状態」と呼び、患者たちが恐れているが、それに近い状態に陥ったのだ。その時、医療者たちは押富さんへの関心をなくした。
 医師は声をかけることもなく、黙って点滴の針を刺した。看護師たちは押富さんの体を拭きながらプライベートな雑談を始めた。作業療法士も黙々と関節をほぐして帰っていった。
 すぐに回復できたが、不信感が残った。「命を守ることが最優先」「信頼関係が大事」と言っている医療者が、患者の尊厳を大切にしているのだろうかと。
 押富さんにとっては、入院中は患者だが、家に帰れば生活者として充実した時間があった。
 歩行や嚥下(えんげ)のリハビリに全力投球する一方、誤嚥を防ぐ「おいしい嚥下食」のメニューを考え、母たつ江さん(69)に作ってもらった。趣味の手芸にも打ち込んだ。二〇〇九年、二十八歳の夏には、高校の仲間の結婚式に酸素ボンベなしで松葉づえを使って出席し、おしゃべりや食事を楽しんだ。

医師の涙に手術決意

 だが、また再発して別の病院に緊急入院した。一時は生死の境をさまよう重症だった。
 担当した医師はやはり分離手術を勧めた。「敗血症を繰り返すたびに救命の可能性が下がる。今のうちにやるほうがいい」。前の病院とは違い、丁寧な説明だった。付き添ったたつ江さんは、医師の涙を覚えていた。文字盤を使い「ほかにほうほうはないの(か)」と泣きながら訴える押富さんに、説得する側の目も真っ赤だったのだ。
 一週間考え、イエスの返事をした。「医療職の関わり方が患者の決意を後押しするのだと、身をもって学びました」と一三年の「作業療法ジャーナル」の連載で書いている。
 そして、奇跡が起きた。
 体調が回復してきたある日、ベッド上で「口パク」のように舌や唇を動かしているうち「口やのどにある空気を使って音が出せるかも」と、ふと思った。空気を吸い込めないから、大きな音は出せないが、看護師を相手に練習するうち、だんだん思うような響きを出せるようになって、意味のある声に変わっていった。この独自の発声法、多くの患者の福音になりそうだが、うまく説明できないという。昨年九月に、私がやり方を尋ねたとき「懸命なリハビリというより、気楽に気長に続けることで、今に至ります。いろいろな方法で呼吸器を着けていても話す方はいますが、私みたいな方法で話す人はまだ会ったことがないですし、医師も不思議がっていますよ。たぶんすごく稀(まれ)です」と返事のメールをもらった。
 この「気楽に気長に」がポイントかもしれない。
 一二年のブログでは「声と呼べない口パクのようなもの」と記し、併用する文字盤では気持ちが伝わりにくいと嘆いていた。
 それが一五年になると「パソコンって言うと、50%近い確率で『ばんそうこう?』って聞き返される」「今日は『血、止めているの』って言ったら、シートベルトだと思われた」と聞き間違いをされた体験をおもしろがっていた。
 一九年に私が知り合った時には、声量はないが明瞭で聞き直す必要のない精度だった。講演では文字をスライドに映して読み上げていたが、なくても十分に伝わると思えた。
 二〇年に押富さんをインタビューした湘南医療大教授の田島明子さん(作業療法学)は「楽しむことに何よりも価値を置き、そのためにとことん頑張れる人」と評する。市民団体を立ち上げ、障害者と健常者が集う「ごちゃまぜ運動会」などのイベントを企画し、地域でのつながりを広げていったのも、電動車いすで遠方まで講演に出掛けたのも「楽しいから」。
 楽しむために努力を重ね、発声障害のバリアーを乗り越えたのだ。