家康没後400年の沖縄独立論(2015年8月9日中日新聞)

2015-08-09 08:09:46 | 桜ヶ丘9条の会
<ニュースを問う> 家康没後400年の沖縄独立論 

2015/8/9 中日新聞
 平和。

 この言葉を前にすると、何だか心がざわつく。沖縄での取材を重ねるにつれ、という気がする。

 二年前、沖縄県営平和祈念公園の刻銘碑「平和の礎(いしじ)」の傍らに「命(ぬち)どぅ宝」と刻まれた新たな碑ができた。「戦争は終わった 平和は人の心でつくる 命こそ究極の宝」と説明されている。碑文に吸い込まれるように見入った。

 碑の創設者、琉球大名誉教授の垣花豊順さん(82)=那覇市=に会いに行った。

 「平和は、残念ながら時代によって曖昧にされてしまうほど純粋なもの。もっと根本的に表す言葉が必要な時が必ず来る」。碑を建てた思いをそう話した。

 今、国会で「平和」が連呼される。全体の幸せがそこにあるかのように。「命こそ宝」と訴える碑との違いは、どこに根ざすのか。

 二年前、私は沖縄戦の被害者らが国に謝罪などを求めた訴訟の取材を始めた。原告に静岡県の女性(74)=那覇市出身=が加わり、沖縄と静岡をたびたび往復した。だが、書けども書けども、沖縄の声が読者に届かない。なぜなのか。答えを探しあぐねた。

◆侵略された立場

 とある居酒屋ののれんをくぐった。三線(さんしん)の音色が心地よく、出張のたびに通うようになった店。大将との何げない会話がきっかけになった。

 「久しぶりだね。静岡の話を聞かせてくれよ。今、何がはやってるの?」

 うーん、徳川家康ですかねえ。

 「へ~、家康が?」

 大御所が平和な世をつくったってね…。料理をさばく大将の手が止まり、いつもの穏和な顔が真っ赤だった。こらえ切れないように憤った。

 「家康が平和? 虐げられた側の立場で見てみろ。全く違うもんが見えてくる」

 私は、沖縄を分かっていなかった。家康がもたらした「平和」は沖縄にとっての「侵略」。それがここでのとらえ方と知った。

 薩摩藩に服従を強いられた琉球の使節は、幕府の権威を民に見せつけるシンボルとして、大国・明の衣装を着せられ、明伝承の三線を奏でさせられながら、江戸までの長旅を耐え忍んだ。その後、明治政府による琉球処分で四百五十年の歴史を刻んだ王朝消滅への道をたどり、「捨て石」の戦場となる沖縄戦へとつながっていく。

 琉球王朝は、中国と日本との関係を保ちながら、一度も戦争をしていない。日本という国家の一部となり、その果てに十二万人もの命が散った。本土で語られる「平和」を真に受けないのは、沖縄の人の身になれば当然だ。四百年前の侵略と祖国を奪われた悲しみ、その後に訪れた裏切りと、今なお続く犠牲はつながっている。

 かつて取材した、世界若者ウチナーンチュ連合会代表の玉元三奈美さん(28)=沖縄県うるま市=の言葉を思い出した。

 「オーストラリアに留学したとき、中国や韓国の友人から言われたんです。『沖縄なら、痛みを分かち合える』って」

 なぜヤマトンチュ(本土の人)ではないのか。大将の言葉に今更ながら、答えをぐさりとつきつけられた気がした。

◆「個」のための憲法

 家康没後四百年になることし四月、静岡の東海本社版で伝えた連載「琉球使節と遠州」では、沖縄の視点に近づきたい、という思いを込めて書いた。受け止めてくれたのは大学生だった。

 静岡文化芸術大(浜松市)二年の冨樫亜耶佳さん(20)らが「多くの大学生が好きな音楽を取っ掛かりに沖縄を理解したい。音楽からなら入りやすいんじゃないかって」と沖縄の学生を招いた三線コンサートを企画した。当日の会場では皆が手を頭上に掲げ、カチャーシーを踊った。

 沖縄の学生がしてくれた民謡の説明に、はっとした。

 「沖縄では花のつぼみを歌った民謡が多いんです」

 本土では桜の散りぎわに刹那を感じ、愛(め)でる。「散りゆく」美学は戦時、人の命も軽んじた。これから咲く花の命を慈しみ、満開を待つ沖縄の美学は、たった一つの命でも、それを最上位の宝とする。

 「命どぅ宝」の碑を建てた垣花さんの言葉を思いだした。

 「憲法の根本は何だと思いますか? 僕なら『個の尊重』とはっきりと答えます。『公』以上に『個』が尊重される社会に変えるために、あの憲法は作られたんじゃなかったのですか」

 沖縄では今、「独立論」が本気で論じられている。その思いに寄り添いたい。心ざわつくことのない、私たちの「平和」につながると思うから。

(木原育子・前東海報道部)