ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

  風塵抄(2) 加印地方(加古郡と印南郡)

2024-09-07 08:24:42 | 風塵抄・高砂

 

         風塵抄(2) 加印地方(加古郡と印南郡)

 

 このブログを風塵抄・加印の歴史としてはじめました。少し説明が必要です。

 (高砂市・稲美町・中学生が使っている社会科(歴史)の教科書の一部を読んでみます。

 ・・・・(奈良時代)地方は国・郡などにわけられれ、国には都の貴族を国司として派遣し、郡には地方の豪族を郡司に任じて、人々を治めさせました。・・・

 加古川・高砂地方は、国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)です。

 この時、郡の境は、加古川の流れを基準とされ、つまり、加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としました。

 私たちの地方は、川を挟んで、加古郡と印南郡とからなっており、「加印地方」と呼ばれ、一つの文化的、経済的地域を形成してきました。

 しかし、加古川は天下の暴れ川でした。洪水は、幾度となく川の流れをかえ、郡境と加古川の流れが、その都度一致しなくなりました。



 川東の印南郡野一部は加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は印南郡に属していました。なにかと不都合が生じました。

 明治22年2月22日、印南郡に属していた加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村の一町四村が、地理的な関係から加古郡に編入ました。

 その印南郡も昭和52年、印南郡に最後まで残っていた志方町が、加古川市と合併し、奈良時代に誕生したその郡名も消滅し、現在にいたっています。

 

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風塵抄・加印の歴史(1)

2024-09-06 08:32:03 | 風塵抄・加印
 

      風塵抄・加印(高砂市・稲美町・播磨町)歴史編

 「ひろかずのブログかこがわをゆく(加古川市の歴史編)」もフェイスブックで5000号を大きくこえ先日終了させました。

 だらだらと、面白くない内容を押しつけ申し訳ありませんでした。

 でも、終えてみると少し寂しいです。

 そこで、加古川市の歴史の続きとして「高砂市・稲美町・播磨町の歴史」を以前に書いた文章に若干修正し、続けることにしました。

 題もかっこよく「風塵抄・加印」としました。お時間のある時にでも、お読みいただければ幸いです。

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播磨の地震(5) 草谷断層

2024-09-05 07:12:29 | 余話として

        播磨の地震(5) 草谷断層

 地図をご覧ください。

 草谷断層は、山崎断層が三木市の方へ走り、そこから南へ向きを変えて伸びる山崎断層の一部であるといわれています。

 草谷断層は、三木市から稲美町を貫き、加古川市へ分布する断層で、東北東-西南西方向に延びており、右横ずれの断層です。

 少し詳細に言うと、この断層は稲美町内では野寺辺りから入ヶ池(にゅうがいけ)にかけて割れ、千波池(国岡)の南の岸から南西へ、そして加古川市平岡町へ伸びる断層です。

 草谷断層は、今後30年以内に動く確率は0%といわれており、当面は地震の心配の少ない断層です。

 でも、最近は想定外の事例が多すぎます。



 ☆あるHPに稲美町の池と草谷断層についての最悪のシナリオがありました。

 無断でお借りします。

 (文末を「です・ます調」に変えています)

      最悪のシナリオ 草谷断層動く!

 田植えを控えた五月中旬でした。

 稲美町の約九十のため池は、どこも満々と水をたたえています。

 普段は水利組合や自治会が適度な水位に管理しているが、はや梅雨本番を思わせる長雨が、一週間近くも続いていました。

 昼前、Hさん(41)は自分の田へと水を引く池で洪水吐(こうずいばけ)のようすを見ている時でした。

 大地がごう音とともに揺れ、たまらず倒れ込んだHさんが顔を上げると、約二百メートル先の高地の池の堤が引き裂さかれ、濁流が一気に迫ってきたのです。

 必死で電柱に登りました。

 足下を通過した濁流は勢いを増して約三キロ下流まで進み、集落を水びたしにしました。

 二時間後、町災害対策本部に入った情報では、町を貫く草谷断層が動いたとのことでした。

 「危険度0%」。住民の誰もが、断層についてそう思いこんでいました。

 だが、断層に近接したため池はほとんどが決壊し、国岡、森安など高台の地区を除き町の大部分が浸水したのです。

 町はまるで、大きな水たまりのようになってしまいました。

 〈追記〉

  稲美町は町面積の一割以上を占めるため池の危険度を示す地図を作って全戸配布ています。全国初の試みです。

  地図の作成に携わった明石工業高等専門学校の神田佳一教授は、「考えられる最も危険な状況から作ったが、想定外の地震や降雨もおこり得ます。ため池が決壊するかもしれない、という日常からの意識こそがその時に役立つ」と言われています。

 *写真:草谷断層

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播磨の地震(4) 米田大地震(応永19年・1412)

2024-09-04 07:55:27 | 余話として

 

     播磨の地震(4) 米田大地震(応永19年・1412

 中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書』に応永19年(14121114日の早朝・米田に大地震があったことを記録しています。

 地震の記事は、次のようです。

 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋(人家)はくつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・

 播磨以外では、さほどのことはなかったようです。

 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録しています。

 この時の米田の地震は、震源地が浅く、今で言う直下型の地震であったようです。

加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を厚く覆い、地震を引き起こす地下の断層が分からなくなっています。

 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要でしょうが、加古川にはあんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害を引き起こすかもしれません。

 593年前に米田を中心にしておきた米田大地震は、そのことを私たちに教えてくれているのでしょう。

 歴史か教訓を学んでおく必要がありそうです。



 米田大地震については『室町お坊さん物語(田中貴子著』(写真)をお読みください。

 なお、『鎮僧私聞書』は、応永32年(1525)の加古川大洪水についても記録しています。

  *『室町お坊さん物語(田中貴子著』(講談社現代新書)参照

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播磨の地震(3) 南海地震(昭和21年12月21日)

2024-09-03 08:12:33 | 余話として

      播磨の地震(3) 南海地震(昭和211221日)

 地震研究者の意見では、次回の南海地震は、まもなく発生すると予想しています。

 前回の南海地震は、昭和21年12月21日の早朝に発生しました。

 死者は、1300人をこえました。

 潮岬の沖合を震源とするマグニチュード8.2の巨大地震です。

 この時期、日本は敗戦のため占領されており、マスコミの自由な報道は禁止されていました。

 そのため、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていません。

 ある新聞は、加古川地方における南海地震を次のように伝えています。



 「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。

このため逃げ遅れた入江さんらは家屋の下敷きになって重傷。

・・・加古川旧本町の商店街は・・・損害を蒙らないところは皆無の状態であり、湯屋数軒の煙突は途中から損傷、旧日本毛織工場の大煙突は亀裂を生じ、レンガ塀の一部が損傷した・・・」



 専門家の意見では、この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことです。

 最近、「さらに大きな次の南海地震が近い」と予想されています。

 南海地震・東南海地震・東海地震が同時に発生したらどうなるのでしょうか。

「想定外」の地震・津波が恐ろしいです。いま何をしておくべきなんでしょう?

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播磨の地震(2) 山崎断層

2024-09-02 09:57:30 | 余話として

     播磨の地震(2) 山崎断層

 兵庫県南部を東西に走る中国自動車道には、福崎から佐用までの間にトンネルがほとんどありません。

 谷がつながる地形が東西に伸びています。その上を中国自動車道が走っています。

 この谷がまさに山崎断層(写真)です。中国自動車道は、山崎断層の真上を走っているのです。

 自動車道の工事の為に山崎断層の地形はかなり損なわれましたが、それでも注意すれば、いたるところに活断層でできた地形を見ることができます。

 山崎断層は大地震のたびにずれ、谷や尾根に特徴的な地形を作ってきました。

 山崎断層は左ずれの断層です。

 写真は、昭和46年の撮影(夢前町四辻付近)です。現在はこの道に沿って中国自動車道が走っています。

 尾根の先端部分をご覧ください。

 尾根の先端部分が左(写真にむかっては右)にずれています。

 山崎断層はおよそ500㍍左にずれています。これらの地形は、「左横ずれ」という水平方向の断層運動でつくられたものです。

 この断層運動はまた,「破砕帯」とよばれる軟弱な岩盤を活断層にそって帯状に発達させました。

 トンネルのない中国自動車道は,まさに山崎断層がつくりだした景観です。

     30年以内に山崎断層でおきる地震の確率:5%?

 「播磨の地震(1)」で紹介した「貞観10年(868)の播磨大地震」は、山崎断層が震源であった可能性が高く、山崎断層の小規模な地震はしばしばおきているものの、その後千年以上、大地震を起こしていないことが不気味です。

 播磨地震から1,100年以上が過ぎた現在、山崎断層西部が近い将来に大地震を起こす可能性は大きいといわれています。

 一方、山崎断層系東部の東端の私たちの地方は、今後30年に山崎断層を震源とする地震(M7.3程度)が発生する確率は5%と予想されています。

 が、現在「想定外」の出来事が多すぎます。

 *写真:山崎断層と中国道

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余話として(1)  播磨大震災(貞観10年:868)

2024-09-01 12:23:43 | 余話として

 

    播磨の地震(1) 播磨大震災(貞観10年:868

       播磨大震災(貞観10年:868

 大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおきました。この地震の災害を忘れないため、今日91 を防災の日としました

 播磨地方でおきた地震につい紹介しておきます。

 

 播磨に大地震の記録が残っています。

 その記録は『類聚国史(巻・一七一)』で、「・・・(貞観十年七月十五日の条に)播磨の国に地震があり、大地震。郡の官舎・諸寺の堂塔みなことごとく崩れた・・」と播磨に大地震があったことを記録しています。

 地震が発生したのは、七月八日で、被害の状況を調査し、一週間後に報告しています。

 この大地震が播磨に与えた影響は甚大なものだったようです。

 郡の役所や寺の堂塔はことごとく大破しました。

 死者等の記録はないものの多くの人々が犠牲になったと想像されます。

 余談になりますが、播磨には貞観十年(868)年以前の建物がほとんど残っていないのは、この地震のためであると考えられています。

       山崎断層

 山崎断層帯主部(南東部:三木・加古川・小野市)では、M7、3程度の地震が発生する可能性が予想されており、山崎断層帯主部全体が連動して活動することも考えられます。その場合、M8,0程度の地震が発生する可能性も考えられています。

 今後30年の間に地震が発生する確率が我が国の主な活断層の中ではやや高いグループに属しています。

山崎断層については次回紹介します。



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