写真の四仏石仏は、先に紹介した十三重層塔と四基並んだ五輪塔の中間にあります。
組み合わせ石棺の底を利用したもので、四体の阿弥陀像が刻まれています。
説明板によれば「銘文は第二尊と第三尊の間に文和(ぶんわ)二年(1353)、第一尊と第二尊の間に二月とあり、この銘文から、南北朝時代の造立であることが分かります。
「文和」は北朝方の年号で、説明板にあるように明らかに南北朝時代の造立です。
当時、まさに激動の渦中にあり、この石仏造られた前年の文和元年には、足利尊氏は弟の直義(ただよし)を殺害しています。
世にいう「観応の擾乱」(かんのうのじゅうらん)です。
南北両朝の抗争の最も激しい時でした。
報恩寺は、赤松氏と深い関係を持っており、赤松円心をはじめ則祐(そくゆう・円心の三男)・満政等赤松一族との関係持つ古文書を多数保存しています。これらの古文書については後に紹介します。
報恩寺は、南北朝の頃、隆盛しました。
この小さな石仏は、そうした時代に造られています。
ですが、誰が何のために造ったものかは分かりません。