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安堵町のかかし

2018-05-10 | 日記
聖徳太子をイメージした案山子のオブジェが安堵町に完成した、と新聞で読んだ。「かかし」と言うのは田んぼや畑の作物を荒らして取っていく鳥や獣を追い払う人形で、その漢字は「案山子」と書くらしい。
スズメやカラスや猪は人形を人間だと思って近寄らないのだよな。
子どもの頃こんな童謡 ♪山田の中の 一本足のかかし 天気のよいのに 蓑傘つけて 朝から晩まで ただ立ちどおし 歩けないのか 山田のかかし♪ を歌った事があるなぁ~。(笑)
そうそう 昔の案山子は藁や竹が使われ一本足だったような気がするけれど、近年のはそうでないようだ。。。。。。。

  5月10日(木)
高さ12mの特大案山子・制作費なんと1200万円の聖徳太子案山子を是非見たいと思って、今日の散歩コースにした。
大和川の堤防を下った所で聞いた話:奈良県の県知事さんが選挙運動に来られた時に頭を下げられたのが案山子だったというのである。そのお陰で案山子作りに熱が入ったというから何と微笑ましいことよ。
既に180体程が町のあちこちに置かれているらしいが、ミレーの「落ち穂拾い」や天理軽便鉄道のホームや太子道の腰掛石の案山子も見たかった。

田んぼの中に立つ巨大聖徳太子の後ろ姿が遠くに見えてきた。赤と白が青空に向かって聳え立ちインパクトが強い。体は斑鳩の法隆寺の方に向いているそうである。散歩中の方が来られ教えて下さった。「このお太子さん、クレーンでここに吊り上げられた時、顔も真っ白でびっくりしたんですよ。その後、画家さんが梯子に乗って書かれたんです。」「へぇ~ 設置してから描く方が、目の位置や角度に臨場感のあるお顔に仕上がるのかも知れませんね。画家さんのこだわりがあったのではないでしょうか。」なんて勝手な想像で応えたが、真実は分からないなぁ~。(笑)
いったい何で作られているのだろう、と思わず足元を見上げる。鉄骨と繊維強化プラスチック製という。

          (画像はクリックすると拡大する)

太子の足元には厩厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)、天武天皇、持統天皇、中臣鎌足など昔を忍ぶ案山子も立っていた。実にうまく出来ている。でも顔はさすが現代的だった。(笑)
田んぼの中には、二宮尊徳さんやクラーク博士が居て博士の台座には「少年よ大志を抱け」否 "BOYS BE AMBITIOUS"と書かれていた。釣り竿を肩にした浦島太郎と亀、千利休や西郷どんetc.沢山並んでいた。私が見たかった「落ち穂拾い」も有った。木枠が準備され絵画として写真が撮れる様になっていた。ご丁寧な仕掛けである。腰をかがめた3人の婦人は遠くからでは人間そっくりそのまま、実に実に巧妙でお見事!

     
 
その後、私は先ほどの女性に教えて頂いた道を進んで名阪国道の下をくぐり飽波(あくなみ)神社に向かった。
石の鳥居には「安久波社」の扁額が掛かかり、前には国史跡の石標が立っていた。そして境内の説明版には《祭神は素戔嗚尊。江戸時代には牛頭天王社と称した。聖徳太子の飽波宮跡と伝えられる。安堵庄総社で、江戸時代以後は東西両安堵村の氏神となる。神殿は春日造り、檜皮葺。境内末社は住吉・水分‣神明・春日社。雨乞の南無手踊りが奉納され、その衣装は現在県文化財に指定されている。》と書かれていた。
「南無手踊り」は「なもで踊り」と読むらしい。

          

「腰掛け石」というのは聖徳太子が愛馬・黒駒に乗って斑鳩から明日香へ通われる折、この石に腰を下ろて休憩されたという。石に腰掛けた太子の手には一七条憲法の巻紙が握られ、その最初に「和を以って貴しとなす」の漢文「以和為貴 」を読めるのが楽しい。その発想に嬉しくなった。(笑)
太子道について私は思い違いをしていたようである。斑鳩を出て河合町を経て三宅町屏風の白山神社の腰掛け石で休憩され、その後、田原本町から橿原へと進んで行かれたのだと思いこんでいた。河合町ではなく安堵町だったとは私には新発見!私バカだよな。(笑)


もう1つのお目当てにはたどり着けなかったが、疲れてきたので今日はこれで帰る事にした。
途中で安堵中央公園と奈良県安堵健民運動場に立ち寄ると、驚くことなかれそれはそれは沢山の案山子が並んでいて、再度びっくりした。すごい!
ここにアンパンマンの仲間だけ足しておこう。

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