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常陸の名門 佐竹三代 (佐竹三代:歴史編)1

2009年10月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りいたします。

そう、ひでるさんもあまりよく分かっていません。
えー、勇猛で知られる「佐竹義重」が勢力を拡大して、その付近では有力な戦国大名であったということくらい。
関ヶ原の際に「佐竹義宣(※写真)」は西軍寄りだったと思いますが、その後は…どうなったんだっけ?
そのくらいな知識。
たまたまゲームで佐竹氏をチョイスしたこともあり、この機会に調べてみることとしたのでした。


佐竹氏は清和源氏から続く名門家です。
お馴染みの常陸に勢力を持ったのは、なんと平安時代からのこと。
歴史あるんですよ。
常陸国は久慈郡佐竹郷にあったため、それから佐竹氏を名乗るようになりました。
竹がどうのというエピソードもあるみたい。

さて、奥七郡を本領とし、当時から付近の有力領主であった佐竹氏。
平氏側であった鎌倉時代には判断を誤って「源頼朝」に敵対し、その討伐を招いてしまいます
「富士川合戦」の勝利で勢いづいた頼朝勢は関東での最大勢力という佐竹氏をターゲットとしたのです。
この戦に敗れた佐竹氏は当然守護にはなれず、不遇な日々を過ごすこととなりました。
しかし、建武の動乱にて七代「佐竹義貞」は終始「足利尊氏」に属して活躍。
その功によって、見事常陸守護となったのです。
佐竹氏はこの室町時代に、関東八屋形(※)の一つとされています
「お屋形さま」の誕生ですね。

こうして順調だった佐竹氏ですが、鎌倉公方に対立した「上杉禅秀」の乱にて分裂。
公方寄りであった宗家に対し、一族の山入佐竹氏などが上杉方についてしまったのです。
さらに、子がなかった宗家十一代「佐竹義盛」が関東管領「山内・上杉憲定」の子を迎えて後継者としたため、家中はより混乱することとなったのでした。

この内乱を鎌倉公方と対立をしていた幕府が利用。
なんと、四代将軍「足利義持」は庶家である山入佐竹氏の「佐竹与義」を常陸守護に任命するのです。
室町の将軍はこうしたところがイヤらしいんですねー
こうして、常陸国は二人の守護が並立するという、異常な有様となったのです。
幕府と結んだ山入・佐竹氏の反乱は、ほぼ一世紀にわたって続きました。
名門家にありがちな、一族間抗争に悩まされるのです。

ここで登場するのが十五代・中興の祖と言われている「佐竹義舜(さたけ・よしきよ)」
一時は本拠太田城を奪われて逃亡していた義舜ですが、岩城氏と結んで反撃。
山入城を攻略し、長きに渡って反逆していた、山入一族を滅ぼすのでした。

こうして内乱を平定してほぼ常陸国を掌握した義舜は、水戸城の江戸氏、古代から続く大豪族・石岡城の大掾(だいじょう)氏、小田城の小田氏、結城氏・多賀谷氏らと覇権を争うこととなるのです。

⇒ つづく。
  次回は「若き当主の義昭さま (佐竹三代:佐竹義昭編)」(2/9)


(※)関東八屋形[かんとう・はちやかた]
 室町時代に関東地方の有力大名につけられた称号(屋形号)。
 足利一門から有力な守護大名などにつけられた。
 他には宇都宮、小田、小山、千葉、長沼、那須、結城…など。


[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
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⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
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※美術的には良い時代ですねー。
 将軍さまトンデモな感じなんですが…。


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