故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

母の命日

2015-01-02 04:57:42 | 思い出話

屁を臭いと思うなよ肛門さんの大あくび。

母の得意なフレーズでした。
篠田さん、あんたもしんさい、車の走るブーッという音に
合わせてすりゃわからんのじゃけ。
と30歳の新米保険外交員に勧めるのでした。

母の通夜の日、貞子おばさんの話がさく裂しました。
やはり保険外交員の重鎮、御年80歳、現役の外交員です。
引退を勧めるのは、ご法度です。

お姉ちゃん(母のこと)が、広島支社の前でみかんの箱を並べて売りよったんよ。
支社長が、「何事かいね。」、「支社の前で行商はいけん。」と固いことを言うんよ。
お姉ちゃんはどこ吹く風で、売り切ったわいね。
「食べてみんさい、おいしいんじゃけえ。」と誰かれなしに食べさせて。

己斐支部でのこと。
支部長が、「訪問が足りん、皆頑張って。」と発破をかけたそうです。
ある時、人がさばけんくらい支部を訪ねてきて困ったことがあったんよ。
お姉ちゃんが、下の横断歩道で、道行く人に声をかけとるんよ。
「聴きに行きんさい、ええ話をしよるんじゃけえ。」と
支部への道案内をしていたそうです。

3億円の保険に入ってくれたんよ。
医者になった子どものお母さんが、
「おばさんに世話になったけえ、入ります。」と言われたそうです。
その時、お姉ちゃんは日本一の外交員で表彰されたんよ。

亡き母を語る。
私もすすんで話しました。

私が高校生の頃、母と同じ船(フェリー)で行きたくありませんでした。
宇品に着くと、母が私が降りるのを待っていました。
150cmに満たない母がにやっと笑って、
みかんの箱を電車まで運ぶように頼みました。
その数、10箱以上。友達を総動員して運びました。
運び終わったあと、友達に一人ずつ小銭を握らせていました。

私は恥ずかしくて、わざと船を遅らせたことがありました。
顔見知りの私の友人たちを使っていました。
後に、友人の幾人かは保険に入らされました。

私も、友人もつかまらない時は、一人で電車まで往復していました。
すると、気の良い車掌さんが向こうからかけてくるのだそうです。
「おばさん、持つけん、運ぶけん。」と全部の箱を電車に乗せてくれたそうです。
「後で、みんなで食べんさい。」と一袋のみかんを渡す母でした。
目的の電停に着くとすべての箱を降ろしてくれて、
さらに道路も横断して渡してくれたそうです。
その間、電車は一時停止だったのです。

母の通夜は、爆笑のうずでした。

年末は、いつも大掃除で何度勧めても、NHK紅白歌合戦を視ない母でした。

母が亡くなって一年。享年93歳でした。
亡くなる前の6年間、私のことを認識できませんでした。
それでも、母が生きてそこにいるだけで嬉しかった。

2015年1月2日
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 潔癖症 | トップ | 休日は嬉し »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

思い出話」カテゴリの最新記事