故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

潔癖症

2015-01-01 05:45:25 | プロジェクトエンジニアー

私は仕事に対しては、ストイックでした。

新入社員で入り、いきなり一億円のプラントを任されました。
三年目は7億円の仕事でした。異例と思いませんでした。
建築設計業者と打合せをしました。
私が描いたレイアウト通りに、建物の設計図が引かれていました。
私は何にも知りませんでした。大学で学んだものは役に立ちませんでした。
やっと卒業出来たのに偉そうなことは言えません。

女にはもてませんでしたが、先輩達からはとても可愛がられました。
破天荒でした。毎日のように飲み歩きました。安い給料はすぐに底をつきました。
先輩にご馳走になったのは、月に半分ほど。凄い飲みました。荒れ狂っていました。
ただ仕事だけは一生懸命やりました。
理由がありました。五年付き合った五歳年下の彼女がいました。
彼女は結婚したがっていました。ソニーの重役の娘でした。
鎌倉から通っていたその娘の引越しを手伝った時に、トラックに同乗した母親から、
故郷の資産を聞かれました。腹がたちました。
駆け出しの社会人には、結婚する知恵も金もありませんでした。

破局しました。

さらに荒れました。ひどかった。
その頃に亡くなったかみさんと会いました。
寿退社を告げに行ったかみさんに、総務課課長は「あれだけは、止めとけ。」
と言われたそうです。私の荒廃は、結婚と同時に止まりました。
更に仕事をしました。10年で辞めました。

東京に出て、設計事務所(助けてくれた方は60歳で亡くなられました)でアルバイトを
しながら就職活動しましたが、最初の会社しか知らない私は井の中の蛙でした。
100社に履歴書を送りましたが、試験さえ受けさせてもらえませんでした。
やむ無くサービスの仕事で外資系の会社に入りました。
一年で、プロジェクトエンジニアに変わり、現場でコーディネーターをしました。
会社の人には無理でも、私にはできました。
前の会社でプロジェクトエンジニア、設計、開発をやっていたので難しくはありませんでした。
日本人の地位が低い。プロジェクトが面白いことに気付き、39歳で転職しました。
今度は転職に一年をかけました。途中で決まった2社を断り大手エンジニアリング会社に
プロジェクトエンジニアとして入社出来ました。とても歯が立たない仕事内容でした。
転職して2年目に転機が来ました。食品プロジェクトでした。
後にも世話になった先輩がプロジェクトマネージャーでした。
それからずーっと帰宅は12時頃でした。

ストレスは凄かった。合間に競馬をやっていました。勝てませんでした。
借金が出来ました。解消したのは49歳でした。5年かかりました。
エンジニアリング会社をリストラされました。
子会社に転籍させられる候補に上がりました。理由は食品担当だから。
転職先は外資系の会社(二回目)でした。

エンジニアリング会社でも、外資系会社でも、業者にご馳走することはあっても、
接待は受けませんでした。

最初の会社で東広島市にいた頃(30~34歳)私は試作の手配担当者から、よく言われました。
悪い金を業者からもらうなと。
会社の先輩で、業者に顎で使われる人(廃人)を教えられました。惨めな姿でした。
ここでも先輩から可愛がられました。規格外れでしたから。

長くなりました。

タイトルは潔癖症でした。
いい加減さとない交ぜになった生き方でした。これが良かった。

潔癖症が、最後まで諦めさせなかった。
いい加減さが自らが壊れるのを助けた。
壊れるのは二種類あります。潔癖症で鬱になること。
真面目一本で、ものの本質を見ようとしないこと。
お利口では駄目なんです。型破りの成長がないし、爆発力がないのです。
今になって、たくさんの授業料を払ってきました。
生まれた時は何も持ってないから元々なんです。死ぬ時も持って行けないから。

財産は人、友人です。
先輩達から、いっぱい教えられた。今度は、私が返す番です。

潔癖症でしたね。

あなたは、真面目だけど思い切ったことをする。
あなたにとって、久しぶりに面白い奴(こと)に巡りあったと、楽しんでいますね。

当たりです。

私は残す気はない。
返したい。
順番だから。
無欲です。
しかし、挑戦であることに変わりはない。

ああ長くなった。
こんなに書かないと、今の心境を表現出来ないなんて、情けない気もします。

寝なきゃね。

明日が最後の寺子屋。

2013年9月3日(手記から)

<<現在の感想>>
いくぶん、人生を甘く見ている自分が感じられます。
「良し」とする部分です。自分を肯定しているところです。
そして格好良く見せようとする意図が見えます。

私は、自分の生き方を肯定もしませんし、否定もしません。
ただ、それしか無かったと割り切るようにしています。
努力をしないで、裏切った人達は多くいます。
両親であり、付き合ってきた多くの女性です。
その時に帰れませんから、後悔はしません。
そのことも含めすべて自分の責任です。

これからはただひたすら返す番です。
支えられてきた先輩たちにありがとうは言えます。
それでは、先輩たちに申し訳ありません。
出来ることを、朽ちるまでやり通すだけです。
2015年の初めの日に思うことです。

2015年1月1日
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