板橋宿は、三つの宿場に分かれている。
江戸側から、平尾宿、仲宿、上宿である。
平尾宿から仲宿に入り、
本陣家跡の標柱がある先にスーパーライフがあり、
その先を右折したうぐ左側に文殊院はある。
(文殊院)
先に板橋宿の本陣の飯田家の話を書いたが、
文殊院は写真の左手にある延命寺像尊の境内を広げて、
本陣の飯田家の菩提寺として建立された。
(延命寺像尊)
門をくぐると左手に板橋の二大閻魔として知られる閻魔堂がある。
(閻魔堂)
(閻魔様)
門をくぐり右手には、足腰の守り神として知られる「子の権現」がある。
「子の権現」
正面には本堂があり、その右手を入ると飯田本陣家の代々のお墓がある。
(本堂)
文殊院を出て中山道を進むと、
仲宿と上宿の境に石神井川が流れて居り、
中山道がまたぐ橋が地名「板橋」の由来となった板の橋がかかって居る。
(板橋)
この板の橋は源頼朝が鎌倉を追われ安房に逃げた後、
再度旗揚げをするために同志と共に集まった場所として、
集まったことが義経記にあったり、
井伊直弼を襲った「桜田門外の変」の残党が、
この場を待ち合わせ場所として選んだとも言われる。
(コンクリートに変わる前の木の板の橋/板橋観光センターより)
(江戸時代の屏風図にある板橋)
江戸側から、平尾宿、仲宿、上宿である。
平尾宿から仲宿に入り、
本陣家跡の標柱がある先にスーパーライフがあり、
その先を右折したうぐ左側に文殊院はある。
(文殊院)
先に板橋宿の本陣の飯田家の話を書いたが、
文殊院は写真の左手にある延命寺像尊の境内を広げて、
本陣の飯田家の菩提寺として建立された。
(延命寺像尊)
門をくぐると左手に板橋の二大閻魔として知られる閻魔堂がある。
(閻魔堂)
(閻魔様)
門をくぐり右手には、足腰の守り神として知られる「子の権現」がある。
「子の権現」
正面には本堂があり、その右手を入ると飯田本陣家の代々のお墓がある。
(本堂)
文殊院を出て中山道を進むと、
仲宿と上宿の境に石神井川が流れて居り、
中山道がまたぐ橋が地名「板橋」の由来となった板の橋がかかって居る。
(板橋)
この板の橋は源頼朝が鎌倉を追われ安房に逃げた後、
再度旗揚げをするために同志と共に集まった場所として、
集まったことが義経記にあったり、
井伊直弼を襲った「桜田門外の変」の残党が、
この場を待ち合わせ場所として選んだとも言われる。
(コンクリートに変わる前の木の板の橋/板橋観光センターより)
(江戸時代の屏風図にある板橋)
やはり、地元でボランティアもなさっていただけあって、 本陣関係の子孫の方から直接に話を聞いたり、楽しそうで羨ましいです。
中山道を日本橋から数えて第一番の宿場町でしたから、
意外に多くの歴史が詰まって居ます。
「どこからお出でになりました?」聞かれて
「板橋から」と答えると、
「板橋と縁切りエノキは残って居ますか?」よく聞かれました。
それほど板橋は名が売れていました。