(芭蕉が二泊した高久)

(那須・高久)
黒羽の城代浄法寺図書邸から家来の角左衛門への紹介状を携え、
芭蕉は那須の「殺生石」を見ようと出かけた。
途中、雨のため、紹介された高久の角左衛門家に二泊している。
角左衛門は高久の地にあって、名主であった。
現在、4号線旧道に沿って「芭蕉二宿の地」の石柱があり、
三軒ばかりの民家が建っている。
南隣に小さな公民館があるので、その空き地に車を駐車させてもらう。
公民館から歩いて「芭蕉二宿の地」を通り越して、北へ数十メートル先に、
(那須町史跡 芭蕉翁塚 「杜鵑の墓」)の白い標柱と説明案内が建っている。
奥をのぞくと、階段の先に芭蕉翁塚の上に覆いがある。
(*)杜鵑はトケンと読み、ホトトギスの中国名。
(芭蕉翁塚の標柱)

那須町教育委員会の案内を要約すると、
(黒羽の桃翠宅からきた芭蕉は、雨で高久に二泊し、
「殺生石」を見るために那須湯元に向ったのを記念して、
角左衛門の孫青楓が、芭蕉の碑を建て、「杜鵑の墓」と称した。
「落ちくるやたかくの宿の時鳥 芭蕉」の句を、角左衛門に授けた。)とある。
標柱の場所から小高い所の奥に「芭蕉庵桃青君碑」の碑が建っている。
ずいぶん古い碑のようで碑文が漢文で書かれているようであるが、
判読できないと、旅のガイドブックにあるが、
正面の「芭蕉庵桃青君碑」以外は、左右背面には何も文字らしきものは、
見当たらなかった。立て替えられたものかも知れない。
(芭蕉翁塚、奥に碑が見える)

(芭蕉庵桃青君碑を撮っているボクの影が映っている)

芭蕉翁塚の場所より、南へおよそ1kmの左に、
高久家の菩提寺 高野山 高福寺があるが、
参道を入った本堂手前の広場に、松の木がある根元に句碑がある。
(高福寺参道中央の松)

「高く村庄屋が
家に宿りて
落来るやたかくの
宿のほととぎす
一と間をしのぐ
ミじか夜の雨 曾良」とある。
家に宿りて
落来るやたかくの
宿のほととぎす
一と間をしのぐ
ミじか夜の雨 曾良」とある。
(松の木の根元にある句碑)

曾良の俳諧書留によると、
芭蕉が角左衛門に授けた句文は、
(殺生石見んと急ぎ侍るほどに、
雨降り出ければ、先、此処にとどまり候。
・落ちくるやたかくの宿の時鳥 翁
木の間をのぞく短夜の雨 曾良)
雨降り出ければ、先、此処にとどまり候。
・落ちくるやたかくの宿の時鳥 翁
木の間をのぞく短夜の雨 曾良)
であり、碑文が間違っている事がわかる。
このあと、芭蕉は「清水流るるの柳」(遊行柳)を観るために、
那須町芦野に出かけている。
・二泊せる 高久の里に かかる月 hide-san
見つけるとは。すごいですね~
芭蕉、当時より有名人だったのですね。
二泊しただけで碑が建つとは。
黒羽から西の方へ移動した訳ですな。
貴兄が書き込まれる奥の細道を楽しむために
図書館で文庫本を一冊借りてきました。
芭蕉の旅 & 円空の旅 立松和平著
同じ時代の人物で同じ頃に良く似たコースを
仏像を彫りながら旅をした僧侶のようです。
まだ読み出した処で黒羽へ向かう道中までですけど。
芭蕉は相当有名人だったようです。
ボクの父も俳句だけ、見事に作りました。
円空の仏像は、沢山あるようですが、
どの仏像も謎のえもいわれぬ微笑みがあるので有名です。
荒削りの仏像をどのように彫刻したのか見事な微笑です。
凄い枚数ですね。
私は、120枚くらいでしょうか。
だんだん、この習慣もなくなってきましたけどね。
若い人は書かなくなってきています。
メール時代ですからね。
旅の先々で作句をして差し上げたのでしょう。
人情味を感じますね。
簡単なそしてお金がかからないメールを選んだのでしょう。
よく解かります。
この句はその挨拶代わりの句で、
芭蕉の真蹟が、高久家に残っているとのことです。
今朝も雪が降りましたが何とか止んでくれました。
やっとTVの部品が来ていつも通りTVっ子のオジイちゃんです。
コタツもお友達で困りますよ~。
猫と一緒です。
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
殺生石は溶岩の塊とか?…狸が殺され化したとか…
うたを詠む人は心優しい人が多いですね。一茶の優しさもよく聴きました。例え小さな生き物でも、踏みつけるだけでも良い気持はしませんね。