年!?歳!?齢!?よわい!?
全部年齢を現わす?
子供の頃、太平洋戦争の最中、爆撃を恐れて田舎へ疎開した。
東西南北 山に囲まれた盆地にある父の実家だ。
そこでは稲刈りから、サツマイモを育てたり、麦踏をしたり、
時には、山に入り栗拾いもした。
栗のイガは足で踏んづけて動かないようにしておいて、
樹木の下草を刈る草刈り鎌の背で押してイガの口を広げ、
中の栗の実を取り上げて、
背負っている籠の中に放り入れた。
せっかくイガを取り除いた栗の実も、次の栗を拾おうと、
頭を下げてかがむと背中から全部落ちてきてしまう。
落ちないように、膝を曲げ腰を落として拾う。
農家の仕事を手伝い、あぜ道の草刈りや、脱穀や、
米搗きなどやらされた。
小学校二年生の時からである。
ここで働かざるもの食うべからずを覚えた。
だから勉強などほとんどしていないで終戦を迎えた。
8/15の終戦の四日後、おじさんにお世話になった挨拶をするや、
一目散で父母の居る場所に帰った。
小学校四年生。
夏休みが終わって、学校が始まったが、
校舎に椅子机が無くて、すべて校庭に並べて置いてあったのを、
4年生以上で全部教室に入れる作業があった。
ボクは四年生であるが、四年生だけで390人いたのだから、
机椅子の量たるや想像していただきたい。
お腹を空かせながら教室に運び込んだ。
次に、机椅子が無くなった運動場を耕してサツマイモをつくる作業に取り掛かった。
疎開していた時に教わっていたので、
サツマイモをつくる作業は楽しかったが、
運動場を耕すのは、並大抵では無い、
大変な苦労が必要であった。
それでも、食べ物が無ければ勉強どころではない。
生き延びることさえ出来ない。
やっと授業らしい授業になったのは、二学期が終わるころ。
戦時中何も教わっていないので、授業が遅れること甚だしい。
時は過ぎて、
六年生の3月、もうすぐ卒業しなければならないのに、
最後の算数の時間に分数を教わっていた。
先生「二分の一、足す、三分の一は、幾つになりますか?わかる人?」
生徒のほとんどが手を上げた。
「ハイ!誰々君」と先生。
生徒は鼻高々で
「五分の二です」と答える。
先生「合っていると思う人?」
ほとんど全員に近い生徒が手を上げた。
先生「違うと思う人?」
誰かが手を上げた。
生徒「六分の五です」
先生「合っていると思う人?」
誰も手を上げなかった。
ボクは早生まれであったので、
子供の頃、背が低かった。
椅子の並びが背の高さの順であったため、
教室では、一番前に座っていた。
その時の先生の様子は次のようであった。
「六分の五が正しいのです。」
生徒は全員シーンとしてしまった。
先生はそう言った後、
ハラハラと眼鏡の奥で涙を落とされ、
(この子たちは大きくなったらどうなるのだろう)
と独り言を呟いたのが聞こえた。
生徒が静かにしている中に、授業終了の鐘が鳴った。
ボクは前列の席で一部始終を見ていて、
(大きくなったら、こんな先生になろう)
と心の中で決めた。
子供の将来を憂えて、涙を流せるような先生になろうと・・・・・。
年齢を重ねるごとに、思い出す。
(こんなことをしながら人生は進んで行く。)
全部年齢を現わす?
子供の頃、太平洋戦争の最中、爆撃を恐れて田舎へ疎開した。
東西南北 山に囲まれた盆地にある父の実家だ。
そこでは稲刈りから、サツマイモを育てたり、麦踏をしたり、
時には、山に入り栗拾いもした。
栗のイガは足で踏んづけて動かないようにしておいて、
樹木の下草を刈る草刈り鎌の背で押してイガの口を広げ、
中の栗の実を取り上げて、
背負っている籠の中に放り入れた。
せっかくイガを取り除いた栗の実も、次の栗を拾おうと、
頭を下げてかがむと背中から全部落ちてきてしまう。
落ちないように、膝を曲げ腰を落として拾う。
農家の仕事を手伝い、あぜ道の草刈りや、脱穀や、
米搗きなどやらされた。
小学校二年生の時からである。
ここで働かざるもの食うべからずを覚えた。
だから勉強などほとんどしていないで終戦を迎えた。
8/15の終戦の四日後、おじさんにお世話になった挨拶をするや、
一目散で父母の居る場所に帰った。
小学校四年生。
夏休みが終わって、学校が始まったが、
校舎に椅子机が無くて、すべて校庭に並べて置いてあったのを、
4年生以上で全部教室に入れる作業があった。
ボクは四年生であるが、四年生だけで390人いたのだから、
机椅子の量たるや想像していただきたい。
お腹を空かせながら教室に運び込んだ。
次に、机椅子が無くなった運動場を耕してサツマイモをつくる作業に取り掛かった。
疎開していた時に教わっていたので、
サツマイモをつくる作業は楽しかったが、
運動場を耕すのは、並大抵では無い、
大変な苦労が必要であった。
それでも、食べ物が無ければ勉強どころではない。
生き延びることさえ出来ない。
やっと授業らしい授業になったのは、二学期が終わるころ。
戦時中何も教わっていないので、授業が遅れること甚だしい。
時は過ぎて、
六年生の3月、もうすぐ卒業しなければならないのに、
最後の算数の時間に分数を教わっていた。
先生「二分の一、足す、三分の一は、幾つになりますか?わかる人?」
生徒のほとんどが手を上げた。
「ハイ!誰々君」と先生。
生徒は鼻高々で
「五分の二です」と答える。
先生「合っていると思う人?」
ほとんど全員に近い生徒が手を上げた。
先生「違うと思う人?」
誰かが手を上げた。
生徒「六分の五です」
先生「合っていると思う人?」
誰も手を上げなかった。
ボクは早生まれであったので、
子供の頃、背が低かった。
椅子の並びが背の高さの順であったため、
教室では、一番前に座っていた。
その時の先生の様子は次のようであった。
「六分の五が正しいのです。」
生徒は全員シーンとしてしまった。
先生はそう言った後、
ハラハラと眼鏡の奥で涙を落とされ、
(この子たちは大きくなったらどうなるのだろう)
と独り言を呟いたのが聞こえた。
生徒が静かにしている中に、授業終了の鐘が鳴った。
ボクは前列の席で一部始終を見ていて、
(大きくなったら、こんな先生になろう)
と心の中で決めた。
子供の将来を憂えて、涙を流せるような先生になろうと・・・・・。
年齢を重ねるごとに、思い出す。
(こんなことをしながら人生は進んで行く。)