宝塚線沿線まちあるき手帖ってぇのを入手しましたんです。
こんなの無かったら、一生行かないんじゃないかしら。なんて、思うような所に、
あちこち行けて学べて癒されて。とっても重宝してますわ。
まだ初心者なのですけどね。この日は、売布神社駅で降り立って、
その後、とほとほ徒歩徒歩・・・・。その手帖の頼りない大雑把な地図で歩いてきたものですから。
う~ん・・・予定では、ここがスタートじゃなかったのですけど、中心部に最初に来てしまった。
そこは毫攝寺(ごうしょうじ)。小浜御坊ともよばれておりますお寺。
室町時代の創建(明応年間)で、浄土真宗本願寺派の名刹。ご本尊は阿弥陀如来。
なんだけど・・・だれも居ない。人の気配が感じられない。う~ん・・・・・。
こんなん落ちてるっていうか、飾られてる?う~ん、並べられてる。
瓦。しかも十六菊だよ。調べなくては・・・・・。
それは徳川時代、御門跡の妻帯所として十六菊の紋章を許されて、十万石の格式を与えられていたと。
そんな大切な瓦が何故!?
なぜって、2度の焼却、放火が有っての事だったらしい。
時代はもちょっと遡り、豊臣秀吉の時代、例えるならば乗り換え駅、ターミナルのような小濱でしたから、
有馬温泉を愛する豊臣秀吉も、ここ毫攝寺を宿として利用していたそうな。
かの千利休も有馬温泉行に同行して、毫攝寺で茶を点てたとか。
秀吉の養子の秀次も、この毫攝寺を利用した時に、お寺の次女の亀姫に一目惚れ。
京都へ連れ帰り側室・小濱の局となるも、秀次の失脚・切腹の後、子供や他の側室と共に
処刑され、実家の毫攝寺も焼却されてしまった。それが1度目の火災。悲しい恋物語。
さて、この毫攝寺、もともとこの地に有ったのではなかったらしい。
歴史はかなり遡り、南北朝初期の丹波の国、六人部(むとべ)の城主、高橋形部大輔の二男が
出家して清範となり禅宗を学び京都出雲路に建てたのが後醍醐帝が深く帰依し、勅願所となったのが起こり。
(大人の都合により中略)
応仁の乱の後、高橋氏の旧領地であった、無人地の武庫川河畔、小濱へ移転したのです。
無人の地であった小濱。
毫攝寺の移転と共に、毫攝寺の寺内町として、はたまた門前町として、どんどん発展したのでした。
また別の文献では、一向一揆の勢力の拠点となったとか記されているものもありました。
誰も居ない静かなお寺なんですけど、ちょっと建物を覗いたら、
手すりが付いてる。うん、手すりだ。・・・だったり、キッチンのキャビネットのような引き出しが見えたり、
静かに・・・・・生活感が匂ってくるよ。一向一揆とは全く無縁なほのぼのとした生活感が。
ここが中心の小濱宿。道に迷って、ここでスタートできたの、返って良かったのかな?
天才的な方向音痴だわ。って事で、次回から、小濱宿のあちこちを書きまする。
出雲路山 毫攝寺
兵庫県宝塚市小浜5-5-12
ちなみにこの門は開きません。触らないように。
開きっぱの出入り口から入ってね。