ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

田中正造翁終焉の地を訪問

2017-12-05 07:44:46 | 地域活動・つながり
私の住む地には、足尾の鉱毒問題と闘い 北川辺を廃村から救った郷土の恩人
「田中正造翁」の 遺徳を継承する団体「田中正造翁北川辺顕彰会」がある。
その視察会で、群馬と栃木の県境にある「田中正造翁 終焉の地」を訪ねた。
集合地の北川辺から 西北に進んで、館林市の下早川田から渡良瀬川を渡ると
佐野市の船津川に入り、左折して線路沿いにターンすると そこには 今年2
月に有志によって建立された 大きな石碑「田中正造翁終焉の地」があった。
その石碑には、流域の被害民を救おうと奮闘した 正造翁の言葉『真の文明は
山を荒らさず川を荒らさず 村を破らず人を殺さざるべし』が刻まれていた。

そこから南西に歩いて程ない所に、正造翁終焉の家「庭田清四郎宅」がある。
翁は 大正2年8月2日の午後、体調不良を訴えて急遽 庭田家に倒れ込んだ。
名医の投剤や必死の看護も効なく、34日後の9月4日に不帰の客となった。
その庭田家を訪ね、清四郎氏が書き残した「故田中正造翁臨終の記」のコピ
ーを資料としていただき、氏から数えて四代目の当主隆次氏のお話を伺った。

渡良瀬川左岸を西に歩き、掘川を越えると館林市域でその先には「雲龍寺」。
曹洞宗のお寺で、朱門を入ると左に「足尾鉱毒事件被告の碑」があり つづく
石段を上がると、田中正造翁を祀る救現堂と分骨墓といくつかの石碑がある。
寺は北関東4県の鉱毒被害民闘争事務所のあった所で、明治33年の川俣事
件の際には、被害民はここに集結し東京への請願行動「大押出し」を行った。
『曹洞宗の寺だから、騒動の衆が集まった訳ではない』と、ひげ爺の独り言。
不謹慎な駄洒落で失礼!、まじめな公害の話ですから口外しないで下さいね。
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