ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

田中正造翁をしのぶ講演会

2013-08-27 07:20:00 | 地域活動・つながり
明治の政治家で活動家であった田中正造は、大正2年9月その生涯を閉じた。
足尾銅山からの鉱毒によって下流域の田畑は不毛の地となったが、被災者農
民救済のために戦い続けた田中翁は、地域の恩人義人として尊敬されている。
翁の没後100年にあたる今年、北川辺地域では記念事業が予定されている。
事業の一つとして先週末、「田中正造翁没後100年記念講演会」が開かれた。
小学生の作文朗読 紙芝居の上演 熊本大学教授小松裕氏の講演が行われた。

田中正造は、天保12年(1841)佐野市小中村の名主の子として生まれ、六角家
の知行地名主や岩手江刺県の下級官吏を勤めた後 佐野で酒造業を手伝う。
38歳の時、政治専念を志して栃木の小区議員になり40歳で県会議員になる。
50歳の時 第1回総選挙で衆議院議員に当選も、同時に鉱毒の被害が多発。
以来 渡良瀬川下流域の農民救済のため、私欲を捨てて地域活動に取り組む。
61歳の時 衆議院議員を自ら辞し、天皇に直訴状の提出を試みるも阻まれる。
以降 地元に戻り、政府の谷中村と周辺の廃村遊水地化に反対闘争を続ける。
60代後半、廃村移住に反対し 一部住民とともに堤内に残留し抵抗を続ける。
67歳の時 谷中村残留の16戸が強制破壊され、流浪の身での活動となった。
73歳 支援者宅で臨終 10月2日の本葬儀には3万5千人もが参列したという。

小松教授は、田中翁の残した言葉/文書を参考にその生涯と思想が語られた。
「真の文明は、山を荒らさず 川を荒らさず、村を破らず 人を殺さざるべし」・・と。
翁生涯の後半部分には、私の住む北川辺地域とのかかわりも多く残っている。
度重なる洪水と公害が深刻化するなかで遊水地化政策に反対し、北川辺住民
を指導し、内に「相愛会」等の組織活動、外に「押し出し」等の請願行動である。
「その結果、北川辺は遊水地化をまぬがれて現在がある 」と、ひげ爺の独り言。
田中翁が没し100年、その地 渡良瀬遊水地はラムサール条約に登録された。

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