明治の政治家で活動家であった田中正造は、大正2年9月その生涯を閉じた。
足尾銅山からの鉱毒によって下流域の田畑は不毛の地となったが、被災者農
民救済のために戦い続けた田中翁は、地域の恩人義人として尊敬されている。
翁の没後100年にあたる今年、北川辺地域では記念事業が予定されている。
事業の一つとして先週末、「田中正造翁没後100年記念講演会」が開かれた。
小学生の作文朗読 紙芝居の上演 熊本大学教授小松裕氏の講演が行われた。
田中正造は、天保12年(1841)佐野市小中村の名主の子として生まれ、六角家
の知行地名主や岩手江刺県の下級官吏を勤めた後 佐野で酒造業を手伝う。
38歳の時、政治専念を志して栃木の小区議員になり40歳で県会議員になる。
50歳の時 第1回総選挙で衆議院議員に当選も、同時に鉱毒の被害が多発。
以来 渡良瀬川下流域の農民救済のため、私欲を捨てて地域活動に取り組む。
61歳の時 衆議院議員を自ら辞し、天皇に直訴状の提出を試みるも阻まれる。
以降 地元に戻り、政府の谷中村と周辺の廃村遊水地化に反対闘争を続ける。
60代後半、廃村移住に反対し 一部住民とともに堤内に残留し抵抗を続ける。
67歳の時 谷中村残留の16戸が強制破壊され、流浪の身での活動となった。
73歳 支援者宅で臨終 10月2日の本葬儀には3万5千人もが参列したという。
小松教授は、田中翁の残した言葉/文書を参考にその生涯と思想が語られた。
「真の文明は、山を荒らさず 川を荒らさず、村を破らず 人を殺さざるべし」・・と。
翁生涯の後半部分には、私の住む北川辺地域とのかかわりも多く残っている。
度重なる洪水と公害が深刻化するなかで遊水地化政策に反対し、北川辺住民
を指導し、内に「相愛会」等の組織活動、外に「押し出し」等の請願行動である。
「その結果、北川辺は遊水地化をまぬがれて現在がある 」と、ひげ爺の独り言。
田中翁が没し100年、その地 渡良瀬遊水地はラムサール条約に登録された。
足尾銅山からの鉱毒によって下流域の田畑は不毛の地となったが、被災者農
民救済のために戦い続けた田中翁は、地域の恩人義人として尊敬されている。
翁の没後100年にあたる今年、北川辺地域では記念事業が予定されている。
事業の一つとして先週末、「田中正造翁没後100年記念講演会」が開かれた。
小学生の作文朗読 紙芝居の上演 熊本大学教授小松裕氏の講演が行われた。
田中正造は、天保12年(1841)佐野市小中村の名主の子として生まれ、六角家
の知行地名主や岩手江刺県の下級官吏を勤めた後 佐野で酒造業を手伝う。
38歳の時、政治専念を志して栃木の小区議員になり40歳で県会議員になる。
50歳の時 第1回総選挙で衆議院議員に当選も、同時に鉱毒の被害が多発。
以来 渡良瀬川下流域の農民救済のため、私欲を捨てて地域活動に取り組む。
61歳の時 衆議院議員を自ら辞し、天皇に直訴状の提出を試みるも阻まれる。
以降 地元に戻り、政府の谷中村と周辺の廃村遊水地化に反対闘争を続ける。
60代後半、廃村移住に反対し 一部住民とともに堤内に残留し抵抗を続ける。
67歳の時 谷中村残留の16戸が強制破壊され、流浪の身での活動となった。
73歳 支援者宅で臨終 10月2日の本葬儀には3万5千人もが参列したという。
小松教授は、田中翁の残した言葉/文書を参考にその生涯と思想が語られた。
「真の文明は、山を荒らさず 川を荒らさず、村を破らず 人を殺さざるべし」・・と。
翁生涯の後半部分には、私の住む北川辺地域とのかかわりも多く残っている。
度重なる洪水と公害が深刻化するなかで遊水地化政策に反対し、北川辺住民
を指導し、内に「相愛会」等の組織活動、外に「押し出し」等の請願行動である。
「その結果、北川辺は遊水地化をまぬがれて現在がある 」と、ひげ爺の独り言。
田中翁が没し100年、その地 渡良瀬遊水地はラムサール条約に登録された。
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