畑こうじ情熱ブログ

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サッカーを見て思う日本人と西洋人とのメンタリティの違い

2006年06月26日 17時17分01秒 | Weblog
 前回から時間が空いてすみません。さて、この間日本は一次予選敗退となりました。日本人は、我が強くなく、まわりとの協調性を重視する人たちですが、それが、サッカーに現れたと思います。俺がヒーローになるんだ、俺が最後までやるんだという、いい意味でのエゴイスティックな部分がなければ、最後まで戦えないのではないでしょうか。FWの決定力不足が指摘される所以です。これに関して、ドイツに住んでいた頃感じたドイツ人のメンタリティとそれに比較しての日本人の長所と短所について書きます。
 日本には、「沈黙は金」ということわざがあります。また、日本においては、全体を考えて発言する人が尊敬され、自分の立場のみから発言していると、「なんだ、あいつは。」ということになりかねません。しかしながら、ドイツでは全く逆です。ともかくも主張しなければなりません。日常生活でも言わなければわかってくれないことが多いのです。それに比べて、日本は、言わなくても、だいたい察してくれるやさしい社会です。ある意味でぬるま湯につかっているように居心地がいいものです。しかしながら、言い過ぎると、角が立つし、出る杭は打たれる社会でもあります。どちらがいいのかはわかりません。それぞれの良さがあるわけですが、少なくとも思うことは、日本人は言葉だけではない高度なコミュニケーション能力を持っているということです。
 日本では、上司がよく、「気をきかせろ。」とか、「察しろ。」とか、「俺にそこまで言わせるな。」と言うのを聞くことがあります(というか、私も公務員時代によく言われました。)。これを、他人から求められると大変だし、ストレスがたまるものです。ドイツでは、議論を聞くと、けんかでもしているように聞こえることがありますが、議論が終わると、からっとして、人間関係が壊れることはありません。議論の後、わだかまりなく一緒に飲みに行くことなど普通のことです。仕事の議論と人間の好き嫌いを分けるという意味で大人なのかもしれません。日本だと、「かわいげのないやつだ。あいつはほしてやれ。」とでもなりそうなものです。日本だと、怖くて他人に注意もできない社会でもあります。ドイツでは、思っていることは言わなければわかってくれない代わりに、いくら言っても角が立たないのですが、日本では、言わなくてもわかってくれるが、言い過ぎるとだめな社会だと感じます。
 日本人は、自分のことを先進国の人間として西洋人と同じようなものだと考える傾向がありますが、このようなメンタリティー一つとっても違うのです。考え方、伝統、文化等が異なる西洋人とは大いに異なるのは事実です。ところで、国際化とは、無色透明で世界的な理想に即した人間となることであるという考え方がありますが、私はそうは思いません。様々な社会的、肉体的な背景の異なる人間が全く同じになるわけはないのです。真の国際化とは、異なる人々が、互いの異なるところを認め合い、共存する術を身につけることであると思うのですがいかがでしょうか。
 勝つための日本のサッカーの強化の方向性はどうあるべきか難しいですね。トルシエ前監督のように、個々の能力が劣ることを前提に、組織の力で戦うのか、やはり、個々の力を高めて日本に足りないストライカーの育成に力を注ぐのか、、、。イタリアのように、かんぬきと言われる鉄壁の守りを構築して、点は取れなくても、そして、試合がつまらなくとも1-0で勝つという方法もあるでしょうし。


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