熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

江里康慧 著「仏師から見た日本仏像史:一刀三礼、仏のかたち」

2022年02月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   久しぶりに、仏像の本を読んだ。
   日経の読書欄に、この本の紹介が出たので、早速手配したのである。

   学生時代を京都で過ごしたので、あの頃は、暇に任せて、歴史散歩というか、神社仏閣、古社寺行脚に明け暮れていて、片っ端から、有名な古社寺を訪ねて、堂塔伽藍や庭園や仏像や絵画や、とにかく、日本文化の粋に触れたくて、古美術鑑賞に歩いていた。
   和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」や入江泰一の写真本などは当然で、仏像関係の本も、専門書なども含めて随分読んで勉強した。
   ここ数年で訪問したのは、東寺と薬師寺と唐招提寺くらいであるが、若い頃から、京都や奈良、近畿一帯のめぼしい古社寺は殆ど回っており、それに、各地の古社寺や博物館や国宝展などにも通い続けたので、国宝級の仏像の多くは鑑賞しており、好きな仏像は何度も訪れている。
   
   私が、仏像にはじめて対面したのは、幸いにも、宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像であった。
   大学に入って最初に通ったのが教養部の宇治分校であったので、宇治の駅前に下宿して、はじめて、文化財としての平等院を訪れて、定朝作の平安時代の国宝阿弥陀如来坐像を仰ぎ見たのである。
   これが切っ掛けとなって、京都近辺を皮切りに、私の古社寺散策をメインとした日本の古美術鑑賞の旅が始まった。宇治河畔が、日々の散歩道でもあったので、平等院には頻繁に訪れた。近くの親鸞の誕生地日野の法界寺には、定朝の流れを汲む良く似た阿弥陀如来坐像があったので、ここを訪れて、醍醐の三宝院から小野を経て山科経由で蹴上げに抜ける京都への散策も好きであった。
   京都の仏像では、太秦の広隆寺が好きで、弥勒菩薩半跏像を筆頭として魅力的な国宝の仏像が沢山あって、何時も長い間、ここで時間を過ごした。
   私のお気に入りの仏像は、木造不空羂索観音立像である。一番好きな仏像の一つが、東大寺三月堂の不空羂索観音立像であるから、偶然にも呼応している。
   嵐山嵯峨野から嵐電に揺られて太秦に出て、その後、様子を見て、仁和寺や竜安寺を経て北野に抜ける。
   京都には、東寺の豪快な仏像群にも圧倒され、素晴しい仏像が随所にあるが、
   やはり、私の仏像行脚は、奈良やその近郊が主体であった。

   下宿先の宇治からは、JRで至近距離なので、まず、法隆寺と中宮寺、そして、唐招提寺と薬師寺、東大寺と興福寺、
   その素晴らしさに圧倒され続けて、
   新薬師寺、室生寺、浄瑠璃寺、飛鳥寺、秋篠寺、法華寺、聖林寺・・・
   尤も、私の場合、古社寺を訪れるのは仏像だけが目的ではなかったので雑多ではあったが、兵庫の浄土寺、小浜の羽賀寺、湖北の渡岸寺にも足を伸ばしたし、とにかく、日本全国を回っているので、北海道から沖縄まで、めぼしい日本の文化遺産や名所旧跡は訪れて、かなりの仏像にはお目に掛かっているはずである。
   しかし、惜しいことに、日本の過酷な風雪に耐えずに消えていった仏像が、無数にあると言う。

   さて、そんなことよりもこの本だが、能書きは次の通り。
   平安時代中期にその後の仏像の祖型を完成させた定朝、鎌倉時代に最高峰を極めた運慶と快慶。今なお模範であり続けるこの仏像群は、現在の仏師の目から見てどう映るのか。仏師として長い経歴を持つ著者が、インドにおける仏像の濫觴から日本の慶派に至るまでの流れを通観しつつ、独自の視点で新たな日本仏像史を描き出す。

   現役の凄い仏師なので、鑿を振る視点から展望して詳述する作仏の仏像史の精緻な描写は、手に取るような迫力があって感動的である。
   日本仏像史と言うことだが、その本体である寺院の興隆を詳細に描いているので、非常に丁寧な仏教史でもあり、鎌倉時代くらいまでの日本の歴史を反芻する感じで面白かった。
   結構、訪れてよく知っている寺院や仏像の話が随所に登場し、親しみを覚えながら読む楽しみも味わえて、以前のように、知識を装備しながら仏像を鑑賞すると言った読み方と違って、味があって新鮮でもあった。

   感銘を受けたのは、序の「一刀三礼、仏のかたち」、
   一刀三礼とは、仏像を刻むとき、一鑿入れる毎に三度礼拝しながら行うことで、仏像が仏陀に対する恭敬の心の表現だと言うことである。
   入門時に、「仏像は礼拝の対象であり美術作品ではない」「彫るのではない。木の中に、すでにおわしますほとけをお迎えするのだ」「往古の仏師は斎戒沐浴をして、一刀三礼しながら鑿をふるった」と厳しい教えを受けた。
   仏教の仏像は、釈尊の悟りの境地、つまり、凡夫には見えない心身脱落の境地を目指し、仏像という「かたち」を通して、その奥にある真理に目を向け信仰せしめる対象であるから、清浄さと尊厳が何よりも大切である。僧侶が、釈尊の悟りの境地にいたる修行の道として、仏像を創るのであり、だからこそ、仏像には崇高にして深い精神性と生命観が宿り、こうした純粋な環境の中から生まれる仏像には美という光が宿るのであろう。
   神として国土安穏、天下泰平を祈る能の「翁」においては、能楽師たちは精進潔斎をして臨むという厳粛な舞台、
   演能中は、見所への出入りは一切禁止され、水を打ったような静寂の中で、なごやかな心で厳粛に神に感謝して祈る
   この世界であろう。

   ところで、私の場合は、罰当たりながら、仏像に対しては、祈りの対象と言うよりは、芸術品美術品として、その美や匠の技の凄さなど造形美とその仏像が醸し出す世界を、日本の歴史を反芻しながら鑑賞すると言う姿勢であった。
   神への祈りが昇華したエキスと言うべき美を鑑賞すると言うことであろうか、
   世界のあっちこっちを周りながら、教会や寺院などの宗教施設や博物館美術館や歴史的な遺跡などで、結構、異宗教の多くの彫像や絵画などを鑑賞してきたが、むしろ、宗教意識がなかった分、無心に美に触れることが出来たのではないかと言う気もしている。

   
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