熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

九月文楽「菅原伝授手習鑑」・・・寺子屋・松王丸忠義悲し

2005年09月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   九月歌舞伎公演の夜の部の冒頭は、「菅原伝授手習鑑」の後半・寺入りの段と寺子屋の段であった。
   3年前の5月に、通し狂言「菅原伝授手習鑑」が公演されたので、朝から晩まで通しで観たが、今回は、「女殺油地獄」と抱き合わせなので、1時間半の短い舞台である。

   松王丸は、前回から同じく吉田文吾だが、女房千代は、簔助から桐竹紋寿へ、武部源蔵は、桐竹一暢から玉女へ、女房戸浪は、桐竹勘寿から吉田清之助へ、夫々代わっている。
   世代交代もあろうが、3人の人間国宝を除いた次の実力者文吾と紋寿が舞台を引き締め、玉女や清之助が渋い演技をしていて、実に見ごたえのある舞台であった。
   
   それに、凄いのは、前回は「桜丸切腹の段」に出ていた人間国宝の竹本住大夫と野澤錦糸が寺子屋にまわって、豊竹十九大夫と豊澤富助とともに素晴らしい浄瑠璃を聞かせてくれたことである。
   文楽劇場に通い始めた頃は、大夫の語る浄瑠璃が分かりにくくて苦痛であったが、その後、文楽に慣れて来てからは、床本集を見ながら聴いた事もあった。
   しかし、この頃は、この大夫の語りにのめり込んでしまって、全く意識の中にはなくなってしまった。人形と浄瑠璃と三味線の音が一体になってしまったのである。
   住大夫の「文楽のここを語る」「言うて暮らしているうちに」などの著書を読んだ所為もあるが、大変な努力と芸の蓄積が胸に迫り、一期一会の語りに神経を集中する。しかし、聴いていると言う意識がすぐに消えてしまって語りに引き込まれてしまう。
   マリア・カラスのように、決して美声ではないが、強い引力と言うか凄い魔力で引き込まれてしまう、そんな魅力がある。

   よく考えて見れば極めて理不尽な話が、この寺子屋の段の主題。恩人の息子を助ける為に身代わりに自分の子供を差し出して、殺害されたその子の首実験をして「相違ない」と言わざるを得ない親の苦衷を、住大夫は声涙を絞って語り続ける。
   松王丸が咳き込む一寸した仕種ももう名人芸。がき大将の洟垂れ小僧のしゃべくりも上手い。苦衷に喘ぎながら呻吟する源蔵や戸浪、人生の理不尽さと不幸を総て背負った松王丸、そんな追い詰められて窮地に立った人間の生きざまを、観客の胸に叩き込むことが如何に至難の業か。
   シェイクスピア役者も、歌舞伎役者も、自分の役をやり切れば良いのだが、浄瑠璃を語る大夫は、総ての役を1人でこなし、話の進行は勿論、総てを語らなければならない。

   官秀才の首実験が終わるとがらりと舞台が変わり、一介の親に戻って泣き崩れる松王丸と千代の慟哭、源蔵と戸浪の悲嘆。
   にっこりと笑って首を打たれた首のない小太郎の亡骸は、白装束に変えた両親に見送られて官秀才の亡骸として輿に乗せて鳥辺之へ。「いろは書く子を敢えなくも、散りぬる命、是非もなや・・・」、悲しくも切ない「いろは送り」の美しい旋律が十九大夫と豊澤富助の名調子に乗って激しく咆哮する。
   3人で操る人形遣いの素晴らしさについても、何時も驚嘆しているが、大夫の芸とその力量にも何時も感心している。
   しかし、上手と下手では、天と地の差がある。

   松王丸を演じる文吾は、玉男にかわって豪快な立ち役の殆どを受け持つこの方面の一人者であるが、いつも感心するのは、逆に、芸が実に繊細で細やかなことである。恐らく、松王丸をここまで演じられるのは文吾しか居ない。
   まだ、近松の世界を見たことがないが、いつか、玉男のような優しさと暖かさを秘めた人形を使う舞台を観たいと思っている。
   最後になったが、紋寿も上手い。この舞台の最も重要な女形の千代は、冒頭の小太郎を寺子屋に預けて帰るところから、もう涙を誘う。後を追う小太郎を置いて後ろを振り向きながら帰る千代の姿、これが今生の別れなのである。
   紋寿の女形の醸し出す雰囲気が好きで、彼の著書「文楽・女形ひとすじ・・おつるから政岡まで」を褒めたブックレビューをアマゾンに投稿したら、何故か評判が良くなかった。とにかく、貴重な人形遣いであるといつも思っている。

   私は、文楽よりは、歌舞伎の方から「菅原伝授手習鑑」に入った。
   最初に「寺子屋」を観たのは、もう10年以上も前、歌舞伎座で、松王丸が猿之助、千代が菊五郎、源蔵が勘九郎(勘三郎)、戸浪が福助であった。
   最近観たのが、3年前の菅原道真公没後千百年記念の通し狂言で、この時は、松王丸が吉右衛門、千代が玉三郎、源蔵が富十郎、戸浪が松江(魁春)であった。
   夫々、素晴らしい舞台で、最初はアホナ話だと思って聴いたり観ていたが、この頃では、のめり込んでしまっている。
   官秀才の首を差し出せと言われて戻って来た時の武部源蔵の富十郎の「せまじきものは宮仕えじゃな」と涙に暮れる台詞がいまだに心に残る。吉右衛門も、住大夫も、この肺腑を抉るようなこの言葉を実に感動的に語る。この台詞を聞くためだけに、寺子屋を観ても良い、と思っている。
   歌舞伎は、オペラに近いと言われているが、ある意味では、浄瑠璃と三味線音楽を考えれば、文楽の方が近いかもしれない。
   シェイクスピアを観れば見るほど、オペラに感激すればするほど、この頃、益々、日本の歌舞伎も文楽も凄いと思い始めている。

   ところで、余談。
   最近、オペラの舞台と同じ様に、文楽も、舞台の左右に字幕のディスプレイが出るようになったので、床本を読む必要がなくなった。
   イギリスのシェイクスピア劇にはまだ字幕がないが、オペラ劇場では殆ど付いている。
   スカラ座では、舞台全体ではなく客席ごとに英語字幕も付いていて便利である。
   ロイヤル・オペラにも付き始めた。メットにはなかったと思う。
   私が、最初に字幕公演を観たのは、もう30年以上も前になるが、リンカーンセンターにあるニューヨーク・シティ・オペラの舞台であった。
   何れにしろ、イヤーホーン・ガイドと同様、字幕は、観客へのサービスとしては、非常に良いと思っている。
   ただ、何でもそうだが、芸術鑑賞には、時間と根気、回数を重ねなければならないのが難かもしれない。

(追記)写真は、文楽カレンダーからコピー。
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1 コメント

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本当に素晴らしかったです (ハンナ)
2005-09-17 11:11:37
出演者でも切符が手配できないほどの人気も納得の舞台成果でしたね。
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