気の向くまま日記

とある凡人の日常から~
日常の生活のなかで感じたこと
日々の写真、食べ歩きなど気の向くまま綴っています。

記憶が消去されている?

2017年12月28日 | 日記

気がつけばあっという間にクリスマスも過ぎ、今年もあとわずか、正月のお飾りを飾る日になってしまいました。
このところ時間の過ぎ方や、出来事に対応する自分の感覚が変?と感じているのは私だけでしょうか?



私事ですが、先月の家賃を振り込むのを忘れていたのを月が替わって3日過ぎてから気づきました(汗)
何十年も月末までに払い忘れたことがないのに、そんなことがすっかりと飛んでしまっていたのです。特に忙しかったわけではありません。

1日には仕事場の近くの広瀬神社さんと空鞘神社さんに朝一番でお参りするのをここ何年も続けていたのですが、これも昼過ぎになって
「あれっ?行ってない??」と気が付きました。最近特別悩みが多いわけでもありません。

そろそろ若年性認知症がはじまったのか?とも思いましたが(笑)
人の名前や地名など、「あれ、あれ!あの人」とか「そこの、なに」とか、すぐ出てこないのは前からよくあることで、特にそれが進んだということでもないようです。

人の行動のほとんどは、今まで生きてきたたくさんの経験の記憶(メモリー)の蓄積と、こういう場合はこうする、といった自分の判断基準の構築がされたものが積み重ねられ、なにか事に直面した際には、条件反射的にオートマチックに行動が決定されてしまうのではないか、と思います。それが「自我」というものの正体のようです。

この肉体をもって物質世界を生きるにあたって、自我というものがいろいろとオートマチックにコントロールしてくれているわけだけど、この自我というものはデータの蓄積と判断の条件付けなら、最近特に流行ってきたAI(人工知能)というものと同じものなのではないか?という感じがしてきました。

しかし、人間の本質というものはAIとは根本的に違うものだと思います。
過去の延長からの技術革新はAIの得意なところでしょうが、真に創造的な領域、芸術性などは人間でしかやり得ないのではないでしょうか?

人間?というか、人間の中の、AI的な自我が消去されたところに、人間を超えたところから「何か」がもたらされたときに真の創造は起こるように思います。

自我が無くなることは自我にとって許されることではなくものすごく抵抗します。「自分は自分である」と言いたい。
それはそうなのだけれど、自分が自分だと思っているものが、本当の自分ではなかったとしたら?
自分が思っている自分というものは単なるデータ(メモリー)の集積にすぎないのなら、、、

メモリーが消えた時、本当の自分が現れるのではないか?

それには自我の自分がなんとかする、のではなく
おおいなるものに、宇宙に、運命に、神に、サムシンググレイトに、(言い方はなんでもいいけれど)

「ゆだねる」という感覚

これがこれからのテーマであるように感じている今日この頃であります。


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