日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ミニーのパンツスーツは、時代の流れなのか?

2022-02-04 21:00:25 | ライフスタイル

Huffpostになかなか興味深い記事があった。
Huffpost:ミニーがパンツスーツを着てはダメなの?ディズニーランド・パリが発表した新デザインが話題に

この記事を読みながら、一つ思い出したことがあった。
昨年の秋ごろだったと思うのだが、学校の制服でトランスジェンダーの男子生徒が「ズボンではない制服が着たい」という趣旨の、話題があった。
実は、女子高校生などについては、徐々にズボンの着用を認める学校が出ている、といわれている。
事実、我が家の近くにある公立高校では女子生徒のズボン着用を、2年ほど前くらいから認められるようになったようだ。
「なったようだ」というのは、その高校に知り合いがいない為、校則として認められたのか?という確認ができないが、2年ほど前からズボン姿で通学する女子生徒を何人も見るようになったからだ。
今年は、例年に比べ寒いからか?ズボン姿の女子生徒の数が、多いような気がする。
もちろん、このような高校だけではなく、厳しい校則がある学校もまだまだ多いだろう。

いまだに「制服」としては、「女性はスカート・男性はズボン」と、決められている場面は多いだろう。
女性のスカートというのは、それだけで「女らしさ」の象徴のようなイメージが、社会的に根付いているからかもしれない。
その意味では、ディズニーランドの人気キャラクター・ミニーマウスが、白地に赤い水玉のドレス姿ではなく、青地に黒の水玉のパンツスーツに、「ミニーらしくない」と感じる人達がいても当然かもしれない。
何故なら、ディズニーランドファンのみならず、「ミニーマウスは白地に赤い水玉模様のドレスを着ている」という、イメージを持っているからだ。
そのイメージは、半ば「刷り込み」のようになっているために、青地に黒の水玉模様のパンツスーツに抵抗感を持つ人がいるのだ。
それが、良い・悪いというわけではない。
「刷り込まれたイメージ」とは違うモノを見せられた、強烈な違和感を持っている、ということなのだと思う。

ただ、このパンツスーツを着たミニーが登場したのが、パリのディズニーランドであった、ということはディズニー側にとって良かったのでは?という気がしている。
理由は深く説明するまでもなく、ファッションの街だからだ。
世界中のファッション産業の中心となっているパリだからこそ、受け入れられるのでは?という考えをディズニー側が持っていた、と考えられるからだ。

上述した通り、LGBTQに関してはここ数年で社会の見方が、大きく変わってきてる。
トランスジェンダーであることを公表している、台湾のオードリー・タンさんなどはその象徴的存在だろう。
今やファッションは、性別で表現するモノではなく個人の表現のツールとなりつつあるのだ。
実際「コロナ禍」で行われた、パリやミラノのコレクションではメンズといいながら女性モデルが登場し、メンズと同じアイティムを着ていたり、逆に男性モデルが、スカートのようなアイティムを着こなしていたりしている。
オートクチュールのようなコレクションではなく、プレタ(既製服)のコレクションでは、性別が無くなりつつある、というのがここ2シーズンくらいの傾向なのだ。

その波に、ディズニーランドも乗り、LGBTQに対する配慮のアピールにもつながっている、ということなのでは?
個人的には、「日本の袴」はトランスジェンダーの方たちにとって、最適なボトムなのでは?と考えている。
もともと日本の服飾文化には、性差がないが、着物そのものは今の生活の中では動きにくく、着ること自体も大変だ。
ただ「袴」は、剣道や弓道のようなスポーツでも着られるような着物の動きにくさを、カバーしている。
とすれば、現台風にアレンジをした袴を制服のアイティムに加えても、良いのでは?と、思っている。






伝統行事ですら、視点を変えると意味まで変わる‐節分‐

2022-02-03 19:20:58 | アラカルト

毎月、和楽Webに掲載される、三笠宮彬女王のエッセイを楽しみにしている。
今月は「節分」がテーマだった。
和楽Web:節分は年越しの行事だった!旧暦を意識すると違って見えてくる、日本の行事

彬子女王が書かれている通り「立春を年の初めとして考える」、という暦の見方がある。
いわゆる「旧暦」で見たときのことだ。
といっても今の若い方などは「旧暦」といわれても、ピンとこないかもしれない。
例えば、仙台の七夕は7月ではなく8月に行われる。
旧暦の7月7日に、七夕まつりをしているからだ。
もっと一般的なところでは、「盂蘭盆会」かもしれない。
いわゆる「お盆」だ。
関東などの一部の地域を除くと、日本のほとんどの地域では「お盆=8月」のはずだ。
これは旧暦の7月に行われていたため、現在の8月に行っている、というわけだ。
逆に7月にお盆行事をする地域というのは、新暦をもとにして行っている、ということになる。

このように、日本人は旧暦と新暦を上手に使いこなしている。
使いこなしているはずなのだが、彬子女王が書かれている通り、自然の移り変わりと新暦があっていない、ということがままとしてある。
上述した「七夕」などは、その一例だろう。
新暦の7月7日の頃は、ちょうど梅雨のシーズンに入っているので「織姫と彦星は、年に1度の逢瀬もなかなかできない」。
それが新暦の8月になれば、梅雨も明け暑い毎日が続く頃になっている。
縁側や縁台などに座り、団扇などを扇ぎながら満天の星々を、眺めることができる。

旧暦と新暦の違いは、季節や自然の移り変わりに沿った暦か否か、ということになるだろう。
ただ、そのような視点で周囲を見回すと、これまでとは違った意味が見えてくる。
それは旧暦の行事に記された意味だ。
今日の節分で言うなら、鬼(=邪)を払い、心新たに新しい年を迎える、という発想もわかるような気がする。
それは、大みそかに行う「除夜の鐘」と同じような、意味を持っているようにも思える。
あるいは、東北地方の「なまはげ」も「節分の鬼」と同じような意味を持ち、「邪を払う」ための鬼のようにも思えてくる。

これと同じように、私たちは「あたりまえ」ということを、疑うことをせずにいる。
その「あたりまえ」に疑問を持った時、彬子女王のようにそのいわれを調べたりすることで、「あたりまえの風景」が全く違ったモノに見えてくるはずだ。
「あたりまえの風景」が、これまでと違ったモノに見えたとき、その「あたりまえ」の意味も変わるのではないだろうか?
彬子女王のエッセイは、そんな気づきを下さったように思う。






セブン&ア・・ホールディングスが売却を検討する「百貨店」

2022-02-02 20:16:02 | ビジネス

一昨日ごろから、「セブン&アイ・ホールディングスが、そごう・西武の売却を検討している」という、報道が出ている。
日経新聞:今知りたいセブンと百貨店 そごう・西武売却まとめ

日経新聞が「まとめ」記事を出すほどなので、おそらく売却はほぼ決定なのだろう。
ご存じのようにセブンイレブンは、コンビニエンスストアの雄だ。
出店やフランチャイザーとのトラブルはあるようだが、それでも「コンビニの勝ち組」といわれるほどの売り上げ・収益を上げているということには変わりない。

コンビニ業界全体が急成長を遂げていた頃、セブンイレブンとイトーヨーカ堂が持ち株会社を作った時には「コンビニが大手スーパーを飲みこんだ」といわれた。
当時は、コンビニの売り上げ・収益よりもスーパーのほうが多かったのだ。
その後、経営不振に陥っていた「そごう」と「西武」という2つの百貨店を傘下に置くようになると、「コンビニが百貨店を飲み込んだ」ということになった。
とはいっても「そごう・西武」の場合、ほかの百貨店が持ち株会社を共同で設立するような状況ではなく、バブルの負債が大きかったような記憶がある。

百貨店こそが「小売りの雄」といわれてきた時代が長かったこともあり、これまでの小売りの指標の中心は「百貨店」だった。
ダイエーが小売り売上で日本一になった時でも、小売りの中心は百貨店という意識が、経済界にも生活者にもあったように思う。
何故なら、いくらスーパーが衣料品を扱っていたとしても、それは「日常の服」であり、百貨店で扱うのはTPOを意識した「おしゃれ着」だったからだ。
逆に言えば、長い間スーパーと百貨店との間で「すみ分け」のようなものが、あったような気がしている。
今回のセブンイレブンのようなコンビニであれば、取り扱い商品そのものも大きく違う。
そのため、一部報道では「セブン方式(の流通方式)が、百貨店では通用しなかった」という趣旨の記事もあった。

取り扱う商品が違うのだから、商品流通の方法が違って当然だと思うのだが、今の生活者が「百貨店」に魅力を感じていない、という気持ちのほうが強い。
取り扱い商品が違えば、「すみ分け」ということができたはずだが、百貨店で取り扱っている商品そのものが、デパ地下と呼ばれる食品売り場を除けば、生活必需品ではないということに気付くはずだ。
今のように、経済成長が望めない期間が長引けば長引くほど、生活者は「日々の暮らしに必要なモノ」に買い物の興味が言ってしまう。
そう考えると、そごう・西武に限らず、百貨店すべてが抱えている問題なのかもしれない。

かつて西武百貨店は、「セゾン文化」の象徴のように言われていた。
それは「モノからコトへ消費が、変わる」ということでもあった。
だが、現実はバブル経済が崩壊し、もろく崩れてしまった、というのも事実だろう。
以来「百貨店とは?」という回答を百貨店自体が、見いだせていないような気がしている。

既に三菱地所が、そごう・西武の入札に手を挙げている、という話もある。
購入する企業は、百貨店をどうしていきたいのか?
そして生活者は、どう考えるのか?
雰囲気やおしゃれなキャッチコピーで、生活者に魅力を伝えられない時代だからこそ、「百貨店とは何か?」ということを百貨店自体が考える時代のような気がしている。


判断基準は統一してほしい

2022-02-01 19:23:42 | アラカルト

毎日新聞のWebサイトに、以前から疑問に感じていた内容についての記事があった。
毎日新聞:感染経路の知見が世界と違う?専門家8人、国立感染研に質問状

記事の内容は「新型コロナ」に関する「感染経路」について、WHOと日本の国立感染症研究所との知見が違う、ということに対して、感染症や物理学の専門家が質問状を出した、という。
今でも日本では「陽性者」が出るたびに、「濃厚接触者」に対して自宅で過ごすように、という指示が出ている。
その理由が「感染経路」の中に、「接触による感染」を含めているからだ。
一方WHOでは「エアゾル(=空気感染)などによる、感染が中心である」という考えから、「濃厚接触者に対する隔離」を推奨していないようだ。
この見解の違いで、今や様々なところで「人が足りない」という状況を生み出している、といっても過言ではないかもしれない。

「エアゾルによる感染が中心である」とすると、上述したように「濃厚接触者」とされる人たちを数日間隔離する必要はなくなる。
少なくとも「濃厚接触者」の対象が限定され、「濃厚接触者」に対する拡大解釈のようなものは無くなるはずだ。
となれば、これまで「濃厚接触者」とされていた「関係性のない濃厚接触者」という対象は無くなり、PCR検査などの対象者も減るはずだ。
これまで頻繁にPCR 検査を受けていた人たちも、必要なくなるかもしれない。
感染者急増による、検査キット不足も解消され、本当に必要な人が検査を受けられるようになるのでは?と、想像できる。


確かに「新型コロナ」が初めて流行し始めた頃であれば、まだ「新型コロナウイルス」そのものが、正体不明なところがあり「できる対策はすべてする」という方法が、きわめて有効だったと思う。
それから丸2年が経過し、様々なことが判明しつつある。
判明していることを基準にすることは当然だが、それが全世界で統一されていなくては、いつまでたっても日本だけが「新型コロナ」に対する過剰な対応策をとり続けるということになるような気がするのだ。

ほかにも、WHOと日本とでは「症状による初期症状・中等症状・重症」という基準に違いがある、という話も聞いた。
海外では「重症」と判断される症状でも、日本では「中等症状」ということになるらしい。
海外では「重症」と判断されるのに、日本では「中等症状」と判断されることで、治療が遅れたり、最悪の場合命に係わるような状況に陥ってしまう可能性がある。

ほかにも「病床率50%超」ということを取り上げられても、「実際の重症者による病床率は、さほど多くはない」と、いうことを知ると「中等症状」の陽性者が多いので、「重症者病床」を「中等症状」の患者さん向けの病床に振り替える、などの方法がとれるはずなのだ。
「病床率50%」という数字で、生活者の不安を煽るよりも状況変化に応じた世界的な判断基準で運用し、状況を発表する必要があると思う。
「新型コロナ」に限らず、「感染症」の多くは特定の国の問題ではない。
人が自由に移動することができるようになった現代では、人が動くことで世界に病気が伝染してしまう、という要素があるのだ。
とすれば、世界のどこでも「同じ判断」で、診断がされなくては「国家間の治療の不公平」が出てくるのでは?
そのような状況は、日本にとってとても不利なことだと思う。