日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

自由と規律、期待とプレッシャー-こどもの日に思う-

2008-05-05 10:52:19 | 徒然
ここ名古屋のお天気は、怪しい雲行きとなった「こどもの日」だ。
所用があり、9時過ぎにコンビニへ出かけた。
祝日の午前と言うコトもあり、駅前のコンビニはガランとしていた。
その時、若いお母さんと幼稚園~小学校中・低学年位のお子さん3、4人が、やってきた。
子供たちは、コンビニに入るなり店内を駆け回る。
お母さんは「ご飯何がイイ?鮭それとも何にする?」と、声を掛けている。
でも子供たちは、そんなお母さんの声など聞いてはいない。
店内で遊び駆け回ることに、夢中なのだ。

「チョット遅めの朝食だろうか?」それとも、「これから行楽に向かうための準備だろうか?」そんなことを考えながら、しばらく様子を見ていたのだが・・・お母さんは、店内で遊び、駆け回る子供たちを一向に注意しようとはしない。
店内にはその子供たちとお母さん、そして私だけと言うコトもあり、子供たちが店内で遊び、駆け回っても人とぶつかって怪我をすると言う心配は殆どなさそうなのだが、子供に対するお母さんの無関心さが気になった。

このような場面は、何もコンビニだけではない。
近くのファーストフード店では、すっかりお馴染みとなった光景でもある。
「子供の個性を伸ばすため、自由にさせる」という理由の元、いつでもどこでも自由にさせることが個性を伸ばす、と解釈されるようになってしまったのはいつの頃からだろう?
社会生活の中では、自由と言う名の自分勝手は許されない場面のほうがはるかに多い。
その意味での規律やしつけは、必要だと思うのだ。
むしろその様な思いは、年々強くなってきている。

まったく違う話題なのだが、昨日伊達公子さんが岐阜で行われていたテニスの国際試合で準優勝をした。
12年近くのブランクを経ての現役復帰と言うこともあり、注目された大会でもあった。
テレビのニュースなどでは、「残念」というコメントが数多く聞かれたのだが、果たして「残念」という言葉でよかったのだろうか?
個人的な印象では、「よくやった」という気がするのだ。
12年近くのブランクがあり、体力的にも今の年齢から考えれば大変だったのではないだろうか?と、感じるからだ。
まして、シード選手ではなく1回戦から戦い11連戦くらいしたのである。

では、何故「残念」という言葉が出てくるのだろうか?
それは「伊達公子なら、優勝するかもしれない」という、期待があったからではないだろうか?
伊達さんは、12年前の世界ランクは4位だった。
日本人では、男女問わず最高ランキングを獲得した選手だ。
その素晴らしい、成績・実力を持ってすれば優勝できる、と言う期待があったということだと思う。
だから「残念」という言葉が、出てしまったのではないだろうか?
ところが伊達さん自身は、「最終日まで残れて、上出来です」とにこやかに話している。
むしろ、1試合ごとに見せる伊達さんの笑顔こそが、周囲の期待「伊達なら、もっとできる」というプレッシャーを、跳ね返していたように思うのだ。

どうも私たちは期待する余り、プレッシャーを掛けすぎるのではないだろうか?
伊達さんのように、世界トップレベルに上り詰めることができるような人ならともかく、子供の時には「まだまだできる」という期待が、プレッシャーになって個性を伸ばすチャンスを失わせているのかもしれないのだ(その意味で「自由=個性を伸ばす」だとは、思っていない)。

伊達さんの笑顔を見ながら「凄いぞ!」と思いつつ、その凄さを育てるために何が必要なのだろう?と、思ってしまった「こどもの日」だ。