日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

変えていくのは、誰?

2019-05-02 10:16:56 | 徒然

昨日、元号が平成から令和へと変わった。
元号が変わるということで、祝賀ムードのあるお代替わりだった。
新年を迎えるお祭り騒ぎとは違う「何かが変わるのではないか?」という期待感のある祝賀ムードのように感じたのは、私だけではないと思う。
そしてこの「何かが変わる」という期待感は、一体誰に向けたものだろう?と、フッと思ったのだ。

拙ブログで時折取り上げさせていただくFM番組、「感じて漢字の世界」で今週取り上げた漢字は「変」だった。
以下紹介文

今日の漢字は「変える」「変わる」。
「変化」「変更」「変革」の「変(ヘン)」です。
元号が変わろうとする今、ひもといてみたい漢字です。

「変(ヘン)」という字の旧字体(變)を見てみましょう。
上半分(䜌)は左から「糸」、「言語」の「言」、
そして再び「糸」を横に三文字並べます。
この部分は、神への誓いの言葉を入れた器の左右に、
糸飾りをつけた形を表しているといいます。
その下に書くのは「ぼくにゅう(攴)」と呼ばれる部首です。
「ぼくにゅう」は、手にこん棒を持って「打つ、叩く」様子。
そこから「変」という字は、誓いの言葉が入った器を手で打つこと、
つまり、神への誓いを破り、改めるという意味を表す漢字になったのです。
そこから「かえる、かわる、みだれる」といった意味でも用いるようになりました。

今からおよそ三千年前、紀元前十四世紀頃の殷王朝時代に生まれた漢字。
動物の骨や亀の甲羅に刻まれた甲骨文字は、
国王による占いの結果を記録しておくための手段。
同時に、神の意志と相違ないということの証明でもあります。
祭祀を始めとする年中行事や戦争、狩猟や農作業の時期、日々の決まりごと。
占われたのは、人々の生活のほとんどすべてであり、
その結果は、神と国王の合意という絶対的なものでした。

それでも、人の魂は限りなく自由。
考え、学び、やがて神意とは異なる理想の未来を思い描きます。
そして、勇気あるその人は、
神棚に供えられた箱に、力いっぱいこん棒を叩き続けるのです。
「変えてみせる」という固い決意のもと、何度も何度も、叩きます。
民衆を押さえつけるために刻まれた文字が、彼を奮いたたせるという皮肉。
今、私たちは、勇気ある先人の姿を、この漢字に見るのです。

元号が変わり、オリンピック開催を控えたこの国は、刻々と変貌を遂げています。
叩き壊そうとしている古きものの価値。
作り出そうとしている新しきものの意味。
私たちは、その一つひとつの是非を判断する責任があります。
「ニーバーの祈り」は、そんなときの指針となる言葉。
その出典には諸説ありますが、
アメリカの神学者、ラインホールド・ニーバーが、
一九四三年、マサチューセッツ州西部の教会で捧げたという説が有名です。
変革のときを迎えてざわつく心を静めたいときに、つぶやいてみてください。
―神よ、変えられないことは、それを受け入れる平穏を。
変えられることは、それを変える勇気を。
そして、そのふたつを見分ける知恵を、お与え下さい。

「変」という感じの成り立ちに、神への誓いを打ち破るという白川文字学の解釈に違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれないが、「変える」ということは、それほどの強い意思と勇気が必要だということなのだろう。
とすれば「変える」のは新天皇、皇后ではなく、私たちの「変えていきたい」という強い意思と勇気なのではないだろうか?
と同時に神学者ニーバーの言葉「変えられないことを受け入れる平穏」ということもまた、重要なことだろう。

変える必要があるモノ・コトには勇気をもって、そして変えなくても良いものにはそれを受け入れる寛容性を、そのバランスが令和という時代を創っていくのではないだろうか?


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時代と個性にあったファッションを

2019-04-30 21:27:19 | 徒然

今日、平成という時代の幕が下りる。
退位礼正殿の儀では、天皇陛下から国民に向けて感謝の言葉があったことは、平成という時代を表すことだったようにも思える。

天皇陛下の退位に当たって、女性週刊誌などは美智子皇后のこれまでのファッションなどを特集する記事が、数多くあった。
それだけ皇室のファッションというのは、常に話題となり多くの女性の注目となるものであったのだな~という気がした。
女性週刊誌の多くは、美智子さまがお妃候補となった頃に創刊されたものが多かったのでは?ということを考えると、美智子さまの人生そのものが、女性週刊誌の記事と共にあった、と言っても過言ではないのかもしれない。

そしてこのような特集を見るたびに、不敬であることは重々承知の上で感じるのは、海外の王室の妃たち比べると残念感があるということだ。
確かに日本の手の込んだ技法を用いたり、日本らしさのある絵柄の生地などを使ってはいるのだが、どこか古臭さを感じてしまうのだ。
宮中での儀式などで着られる装束などは別にして、皇室の第一礼装であるドレスや公務でお召になる服などは、もっと華やかなのものでも良いのでは?という気がしている。

世界の王室の中でも一番オシャレなのでは?と言われている英国のエリザベス女王のファッションを見ていると、デザインそのものは奇抜なものではないが、色やプリントで華やかさを出し、見ているこちらまで元気が出てくるようだ。
キャサリン妃などは、故アレキサンダー・マックイーンやステラ・マッカートニーのような、英国出身の若手デザイナーの服を積極的に着ている。
自国のファッション産業をアピールする、ということを考えればキャサリン妃のような自国の若手ファッションデザイナーの服を積極的に着る、というのも一つの方法なのでは?

確かに、現在の日本のファッションデザイナーの中に、ステラ・マッカートニーのようなデザイナーがいるのか?と言えば疑問だ。
言い換えれば日本のファッション業界は、このような若手デザイナーの育成をサボっていた、ということにもなるのではないだろうか?
日本全体のファッション傾向は、カジュアル志向となりユニクロを代表とする、ファストファッションばかりが話題になる。
それで、日本のファッション文化は育つのだろうか?
先日エントリしたように、1970年代後半から1980年代世界のファッションシーンで、日本人デザイナーが世界から注目を浴びた。
当時注目を浴びた日本人デザイナー自身も、既に還暦を過ぎているにもかかわらず、後継者となるようなデザイナーは?という疑問がある。
それだけではなく、彼らのデザインが皇室向きのものか?という点でも、なかなか難しいものを感じる。
ファッションデザインとしての表現と、着られる現実的な服とでは大きく違うからだ。

エリザベス女王のように、見ている私たちまでもが元気になるようなエレガントで華やかなファッションもまた、皇室のファッションなのではないだろうか?
何より、そのようなファッションを新皇后である雅子妃は、着こなせるのでは?と感じている。


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スリランカのテロとオウム真理教事件

2019-04-25 20:49:45 | 徒然

先週末、スリランカで起きた連続爆破事件。
キリスト教の教会が中心に狙われた事件だったことから、早い時点でイスラム過激派の関与が、疑われていた。
そして、ISに感化された若者たちが中心となって起こした事件だったようだ。

ISの中心拠点だったシリアでは、殲滅作戦が功を奏しほぼいなくなったのでは?と言われていた。
と同時にシリアから逃げ出したISの戦闘員が、世界各地に散らばっただけでは?という指摘もされていたように思う。
そして今回の事件で、シリアからISの戦闘員が世界各地に散らばっただけではなく、新たにISの掲げる思想(というべきなのか?)に感化された若者たちが新たな活動を自国でもするようになった、という現実を見せつけたような気がする。

それだけではなく、このような過激派に心酔する若者の中には比較的裕福で高学歴の若者たちがいる、という事実に、かつて日本を震撼させた「地下鉄サリン事件」を引き起こしたオウム真理教の幹部たちを思い出すのだ。
BBC NEWS:高学歴で海外留学の経験者も スリランカ爆破、実行犯の素顔
ご存じの方も多いと思うのだが、教祖である麻原彰晃に心酔し、事件を引き起こした若者の多くはいわゆる一流大学で理工系を専攻し、「論理的思考」の持ち主でもあった。
にもかかわらず、傍から見れば荒唐無稽の絵空事のような話を信用し、最終的には「地下鉄サリン事件」を引き起こしてしまったのだ。
逮捕後、彼らの口から「なぜ、荒唐無稽のような話を信用し、麻原彰晃という人物に心酔してしまったのか?」ということは、ほとんど聞くことができなかったように思う。
ただ、今回スリランカで連続爆破事件を起こした犯人だけではなく、ここ20年くらいの間でテロ事件を起こした中心的人物の多くが、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教の幹部たちと重なって見えるのだ。

社会的にも経済的にも「安泰」が約束されているような若者たちが、何故ISやオウム真理教のような反社会的思想に心酔してしまうのか?
もしかしたら「安泰が約束されている」からこそ、このような反社会的思想に心酔してしまうのではないだろうか?
「安泰が約束されている」ということは、社会にある理不尽なことや格差など「社会の嫌な部分」を見ることなどほとんどなく、自分が置かれている立場が安全で将来が保証されているとは思っていないし、考えたこともないのでは?
そんな「世間の狭い」中で、荒唐無稽であっても過激な劇薬のような考えに触れることで、ある種の「理想」のようなものを感じてしまうのだろうか?

事実ISに参加した欧州の若者たちの中には、「ISの思想はイスラムの教えの中でも純粋さがある」という話をした若者もいた(ような記憶がある)ことを考えると、彼らの純粋さ=イノセントは「無知」という意味のように思えるのだ。

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川口市で起きたクルド人生徒へのいじめと外国籍労働者の受け入れ

2019-04-23 20:57:32 | 徒然

先週末、一部新聞などに報道されていた埼玉県・川口市で起きたクルド人生徒へのいじめ。
徐々にその実態が分かってきたようだ。
毎日新聞:埼玉・川口の小学校でクルド人いじめ深刻 支援者「特別視せず平等に対応を」

このニュースを聞いたとき、とても残念な気持ちになった。
見た目が大きく違う外国籍の子どもたちは、小学生くらいの子どもたちにとっては格好のいじめの対象となりやすいだろう。
もちろん、白人系の外国籍であれば反応そのものも大きく違っていただろう、ということは想像がつく。

私たちの潜在意識の中なのか、社会的刷り込みなのかは分からないが、欧米出身の白人>日本人>黒人や日本以外のアジア地域の出身者というある種の優劣的意識を、残念ながら持ってしまっている部分は否めない。
いくら生物の授業の中で「人類の始まりは、アフリカである」と教えられても、その優劣意識を覆すまでには至っていない。
だからこそ、遺伝学者たちが「人種による優劣は無い。そのような概念は差別を助長させる」と、声を上げるようになってきたのだ。
朝日新聞:「人種」の概念、化学で使わないで 米で差別助長を懸念

特に日本では、異なる国籍を持っている人たちと接する機会がほとんどない為、接し方そのものが分からないということもあるだろう。
今回いじめのターゲットとなってしまったクルド人についての、知識や理解も十分できないまま外見の違いで、いじめのターゲットとなってしまった可能性も大きいのでは?と、感じている。

もちろんいじめの対象がクルド人であろうと、日本人であろうと、やってはいけないことだ。
しかし今の日本の社会は、自分たちのテリトリーの中に異分子と感じられる人に対して、徹底的に排除するという傾向が強くなりつつあるように感じている。
見た目にも自分たちとは違うクルド人だからこそ、一番分かりやすいいじめのターゲットとなってしまっただけではなく、学校側もその対応ができず、いじめを助長させる結果になってしまったのではないだろうか?

何より残念だと感じたのは、せっかく日本人ではない子どもたちを学校が受け入れたのだから、クルド人の文化や社会などを積極的に学区全体を巻き込んで、教えなかったのか?という点だ。
「異文化に接する」という機会は、とても貴重でましてクルドの人たちは国を追われ、日本に逃げ延びてきた人たちが多い。
まさに、現実的な異文化を知り、シリアなどの戦火による悲劇を直接的に学ぶチャンスでもあったはずなのだ。

また彼らがイスラム教徒だから差別を受けて当然、という考えであれば、「外国人労働者受け入れ」という政府の政策そのものが揺らぎかねない。
何故なら、「外国人労働者」として受け入れるであろう東アジアの国々の多くは、イスラム教徒の国だからだ。

小学生くらいの子どもたちにとって、自分たちと見た目や言葉、文化が大きく違う人との接し方が分からないのは、当然だと思う。
だからこそ、大人たちがキチンと教える必要があったのではないだろうか?


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上野千鶴子先生の祝辞と社会の厳しさ

2019-04-16 20:40:15 | 徒然

先日、東大の入学式で上野千鶴子先生の祝辞が、話題になっている。
東京大学HP:平成31年度東京大学学部入学式祝辞

東大のHPに祝辞全文が掲載されている、ということを考えると、東大側としてもそれなりの意図をもって、上野先生に祝辞を依頼したということなのだろう。
そして上野先生は、その期待以上の内容の祝辞を述べられたのでは?という気がしている。

ご存じの方も多いと思うのだが、上野先生は「女性学(あるいはジェンダー)」の論客だ。
その話しぶりや話の内容から、それなりの批判というか反発を受けることの多い方でもある。
社会経験のある女性から見れば、実体験として上野先生の話を、現在進行形の問題として受け止められた人も多かったのではないだろうか?
その反面、入学式に参列をした父兄の中には現実感が無かった方も多いのでは?という気がしている。

随分前から「東大生の親の収入」が話題になっている。
他の国公私立大学よりも、親の収入が多い傾向にあるのが東大生の家庭だからだ。
Newsweek:東大生の親の6割以上は年収950万以上(2018年9月5日号)
親の6割以上が年収950万以上と言っても、世帯収入として考えればそれほど多くないのでは?という印象を持ってしまうが、世帯収入と言ってもシングルインカム=父親の年収が950万以上という点では、大学進学をする一般的な学生の中でも相当な高収入の父親である、と言えると思う。
もちろん、子どもを東大に進学させるために、それなりの教育を幼児期を受けさせるために母親が付き添うことができる(=専業主婦)家庭である、ということになる。
幼児期の頃から、経済的優位な環境にあり、それをサポートできる家庭環境でもあった、といえるのだ。
だからこそ、上野先生は「(自身の努力だけではなく)そのような環境にあった」ということを言っているのだろう。
そして、参列した父兄の中には「そのような環境=東大に行くために様々な幼児教育を受けることができる機会に恵まれた環境」であった、ということは、肯定してもそれを特別なことだとは思っていないのではないだろうか?

ただ社会に出ると、それまでの「恵まれた環境」とは違う「環境」に出ていくことになる。
「社会の厳しさ」だ。
女子学生の場合、「東大卒なのに・・・」と言う言葉と、女性という二つのハンディを背負うことになると思う。
だからこそ、厳しい社会の中で「勝ち負け」ではなく「支え合う力」必要性を、上野先生は述べられたのだと思う。

(経済的に)恵まれた環境にいては分からないこと、弱者に対する「社会的資産の再配分」とはなにか?ということを上野先生は祝辞として述べているとすれば、それは東大生だけではなく社会全体の問題として捉える必要があるように思うのだ。


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日本人の感性と新元号

2019-04-01 17:11:55 | 徒然

今日、新元号が発表された。
ご存じの通り「令和」だ。
元号の由来が「万葉集」の梅を歌った和歌の序文からとられている、という説明もあった。
由来となった序文について、詳しい解説があった。

万葉集入門:梅花の歌三十二首并せて序(万葉集)

高校の古文を思い出すような内容だ。

この解説を読んで「令月」を「好き月」と書かれているのを読んで、「あ~~日本的な感性だな~」と感じた。
「好き月」と書いて「よきつき(=素晴らしい月)」という、意味になる。
けっして「すきな月」ではない。
今現在一般的に使われている「令=命令やおきて、あるいは令息・令嬢といった他者の親族に対する尊敬を表す漢字」ではない、ということもまた重要なのだと思う。
このように、日本人は漢字に様々な意味を含ませ、歌を詠んできたように思う。

随分前、批評家で文筆家の若松英輔さんの本を読んだとき、
「悲しみは慈しみでもありまた『愛しみ(いとおしみ)』でもある。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。(中略)古語では『愛おし』を『かなし』と読み、更に『美し』という文字さえも『かなし」と読んだ。」
という柳宗悦の本の一節が紹介されていた。

高校生の頃、古文の授業で頭を悩ましたのは、このような現代で使われている言葉の意味とは全く別の意味で、言葉を使っていたということだった。
「いとかなし」は「とても悲しい」ではなく、「とても心惹かれる、とても見事」という意味で、そのような意味の違いを覚えるだけでも苦労した覚えがある。
ただ、今更ながら感じることは、柳宗悦が書いているように、古典に登場するような歌の作者たちの豊かな感性だ。
短い言葉の中に、いくつもの意味や思いを含ませ、その場の情景を歌う感性というのは、世界的に見ても珍しい文化なのでは?と、思ってしまうのだ。

「良きこと(あるいは善きこと、または好きこと)をもって和となす」のか「和をもって良きこととなす」のか、その解釈はいろいろだと思う。
どちらが先か?ということではなく、その両方を一緒にしていく、ということが大事なのかもしれない。

この「梅花の歌会」が今の2月の出来事というのも、2月生まれの皇太子さまとの繋がりを感じさせる元号だと思う。



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「ネガティブ社会」を生み出しているのは、誰?

2019-03-28 20:24:58 | 徒然

日経のコラムCOMEMOに「結婚しない人が増えてきた理由」というタイトルに、「オヤ?!」と感じた。
COMEMO:結婚しない人が増えてきた理由

コラムを書いている池永さんの意見に全面的に賛成!というわけではないが、何かにつけ「不平・不満が渦巻く社会になった」という実感はある。
その「不平・不満」の原因の多くは、おそらく「不平・不満を持っている人自身にある」という点も、なんとなくわかる。
要は「他力本願」的な、「私を幸せ(あるいは満足させてくれる)のは、よそ様が提供してくれるモノ」という、思い込みというか社会的刷り込みがある、というのもなんとなく理解できるのだ。
例えば、自分の思い通りにいかないとやたらと威圧的な態度をとる、という人がいる。
そして威圧的態度をとっている相手というのは、自分よりも若い人であったり、社会的上下関係にある下の立場(と思い込んでいる人)であったりする。
少なくとも社会的立場が上の人物には、威圧的態度を示すということはまずないだろう。
「下の者は、自分に尽くすのが当然」と思っているからだろう。

その一方で日本の社会は「横並び(の意識が高い)」とも言われている。
いわゆる「同期」という仲間意識だ。
その中で「出世」などという、競争が始まるとその関係は一気に崩れてしまう。
「同期の中に上下関係」が起きてしまうからだ。
違う言い方をするなら、「勝者と敗者」のような関係だろうか?

しかし「勝者」であったはずが、いつの間にか「敗者」になってしまっていることもまた多い。
時代の流れや社会の変化についていくことができず、古い社会的観念から抜け出せずに、自分が「勝者」であった頃の価値観を持ち続けていることに気づかない、という場合だ。
「勝者であったはずの自分が、敗者になっている」という事実を認めたくない時、多くの人は他者に対して威圧的態度を示すようになる、と感じている。

そして今の日本の社会は「バブルの頃はよかった」的価値観の人と「バブルなんて知らない。努力しても社会からの恩恵など無い」という価値観の人との「断絶した意識社会」のような気がしている。
そして「平成」という時代は、そのような「断絶した意識社会」でもあったのでは?と感じている。
このような「価値観が断絶した社会」こそ、「ネガティブ社会」を生み出しているのではないだろうか?

「ネガティブ社会=不寛容社会」だと考えた時、社会を変える為に必要なことは池永さんがコラムで書いていらっしゃるような「感謝」ということのような気がする。
「ありがとう」と言う言葉を言う時、多くの人は笑顔になる。
そして「ありがとう」と言う言葉を受け取った人もまた、笑顔になる。
その笑顔は些細なことであっても、「ネガティブ社会」を少し「(多様性を認め合う)寛容性の高い社会」を創っていくのではないだろうか?

 

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NHKのワンセグ受信料徴収を考える

2019-03-15 21:12:06 | 徒然

先日「スマホなどでのワンセグでの視聴は、NHKの受信料を支払う」という裁判で、最高裁は上告を退ける決定をした。
時事通信: 「ワンセグ携帯も義務」確定=NHK受信契約、上告を退けるー最高裁 

このニュースを聞いたとき、iPhoneのようにワンセグ受信の機能がついていないスマホなどの市場拡大は、あるのだろうか?ということが思い浮かんだ。
もちろん、iPhoneにもワンセグの受信ができるアタッチメント(というのだろうか?)を取り付ければ、受信できるようになるらしいのだが、そこまでしてワンセグでテレビ番組を見たい!という人は、余り多くないのでは?
むしろ、androidを最初から選ぶのでは?という気がしたのだった。
とすれば、iPhoneをはじめとするAppleの商品は、基本ワンセグ機能が無いようなので、NHKのこのような受信料の徴収がまかり通れば、意外な影響をスマホやタブレット端末、PC市場に及ぼすのでは?と、感じたのだった。

この裁判では、スマホなどの携帯電話に対して受信料を支払え!と、NHKは言っているように思えるのだが、実はワンセグ対応のカーナビなども対象となるようだ。
くるまのニュース:「NHK契約」カーナビも?最高裁「ワンセグ付き携帯も契約義務」各社の反応は?

確かに、ワンセグ機能がついているカーナビも同様の判断をされるのは、容易に想像がつく。
ここまでくるとNHKの主張は、「映像を受信できる全ての機器は、受信料徴収の対象となる」ということのように思えてくるのだ。
今回の最高裁の判断は「ワンセグ」だったが、今後NHKが積極的に展開をしていきたい(と考えているように思える)ネット配信などについても、受信している・していないに関係なく「受信料の対象」と言い出してくるような気がしてならないのだ。

現在、NHKは「放送法」という法律の中で、受信料徴収を半ば義務のように言っているのだが、今では「映像を放送・配信している」のはNHKだけではない。
民放もそうだが、今後NHKが力を入れるであろうネット配信市場などは、NetflixやHulu、AmazonPRIMEvideoがあり、NetFlixに至っては製作した作品がアカデミー賞にノミネートされるほどの作品をオリジナルで作っている。
もちろん、Netflixをはじめとするネット配信サイトは、有料会員を対象としているのだが、これまでのNHKの主張が認められるようになると、ネット配信サイトの市場はどうなってしまうのだろう?

NHKは「全ての国民に豊かな娯楽と情報、公正な報道を提供する」ことを目的として、受信料を徴収するということになっている(という理由だったと思うのだが)。
そのために、(地デジ放送開始以前の)地上波の視聴困難地域に対する設備投資などを受信料で行う、ということだった。
そのような問題が、地デジ放送開始によってほぼ解消され、若年層を中心にテレビの視聴離れが進んでいる今、時代にそぐわないように思うのだ。

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災害復興住宅での「孤独死」を減らすには?

2019-03-12 22:10:33 | 徒然

昨日の「東日本大震災」の慰霊のニュースが目立つ中、災害復興住宅での「高齢者の孤独死」という問題も、クローズアップされていた。
仮設住宅よりも、災害復興住宅での「孤独死」のほうが多い、という内容だった。

「阪神淡路大震災」の時の反省から、「東日本大震災」の仮設住宅では「地域全体」を一つの単位として仮設住宅に入居する、などの配慮がされていたように思う。
これまで築いてきた地域社会のコミュニティーを極力継続させることで、孤独死を減らすということが目的だったと思う。
それが災害復興住宅では、活かされなかったようだ。
結果、災害復興住宅入居後の「(高齢者の)孤独死」が増えたという。

訪問による心のケアをするにしても、週何度も訪問できるほどのケースワーカーさんなどの人員確保も難しいだろう。
とすれば、何かしらの理由づけを高齢者に与えることによって、週のうち必然的に外出をする目的をつくることも必要なのではないだろうか?
高齢者に限らず災害復興住宅の人たちが、気軽に集まれる場所があれば、ある程度の問題解決になるように思うのだ。
例えば、「銭湯」だ。
おそらく災害復興住宅には、「家風呂」がある設計になっていると思う。
実際そのほうが、便利だし衛生面でもメリットがあるだろう。
反面、買い物以外で外出をすることが無くなった高齢者にとって、自宅で生活の多くが完結するのは便利な反面、家から出る機会を減らすことにもなる。
「家風呂」の掃除をしたするのは大変だし、場合によってはうっかりお風呂を焚きすぎてしまうという場合もあるだろう。
それが「銭湯」であれば、「銭湯に行くまで」が大変かもしれないが、風呂掃除の手間やお風呂を焚きすぎることで起きる火災の心配もまずないはずだ。
「銭湯」に行くことで、知り合いの顔を見たり、たわいもない話ができることが、「心のケア」に繋がっていくだろう。
高齢者の子育て経験が、若い子育て世代のサポートにつながっていくかもしれない。
何より、様々な年齢の人達と一緒に過ごすことで、「世代を超えたコミュニティー」が生まれてくるのではないだろうか?

一例として「銭湯」という、新しいコミュニケーション場所を考えてみたのだが、「銭湯」に限らず災害復興住宅に住んでいる人たちが、積極的に出かけ・集まる理由となる場所を創ることが「孤独死」を減らす一つの方法のような気がする。

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もう8年、まだ8年・・・東日本大震災

2019-03-11 19:09:12 | 徒然

今日、日本のあちらこちらで「鎮魂の祈り」が、ささげられた。
8年前に起きた「東の本大震災」に対する、祈りだ。

「祈り」とともに、「復興が進んでいる姿」も様々な情報から知ることになる。
確かに、被災地は復興し「元被災地」となっている所もあるだろう。
だが「阪神淡路大震災」の時でも仮設住宅が完全撤去されるまでに10年くらいの時間を要した、という記憶がある。
とすれば、まだまだ「復興の最中」という状態にあることには、変わりないだろう。
まして「東日本大震災」の場合、「福島第一原子力発電所事故」という、今だ収束の目途が立っていない重要案件もある。
とすれば「東日本大震災」は、「福島第一原子力発電所事故」で発生した「汚染土壌」の最終処分が終了し、焼け落ちた(といわれる)放射性物質の回収、汚染水の処理などが終わるまで、「復興した」とは言えないと思う。

1994年に故永六輔さんが書かれたエッセイ「大往生」が、大ベストセラーになった。
発刊された当時参加していた「読書会(という名の異業種交流会)」の課題で読んだ記憶があるのだが、その中で故坂本九さんのことに触れられていた。
ご存じの方も多いと思うのだが、坂本九さんは「御巣鷹の飛行機事故」で亡くなられている。
坂本さんと永さんとは数々のヒット曲を生み出した仲間として、親交があったようだ。
そして坂本さんの死後、ご遺族の方が坂本さんの死を受け入れられるようになった、と感じるまでに10年の月日が必要だったように思う、という内容の一節があった(と、記憶している)。
肉親や親しい人の突然の別れを受け入れるには、そのくらいの月日が必要なのだろう。
とすれば「東日本大震災」で被災された方々にとっての8年は、まだまだ受け入れられない時間の経過のような気がしている。

また「人は二度死ぬ」と言う言葉もある。
「一度目の死は、肉体的な死。二度目の死は忘却による死」という意味だ。
このような概念(というべきか?)は、洋の東西を問わず言われていることなので、ご存じの方も多いと思う。
そして「死者は(生きている)私たちの側にいて、様々なことを教えてくれる」ということも言われている。
幽霊となって側にいるというのではなく、亡くなられた人の思いなどは生きている私たちの中にある、ということだ。

被災地から遠く離れた場所にいて、被災された人々、震災によって亡くなられて人たちを知らなくても、「東日本大震災」という大震災のことを今日だけではなく、いつも心の片隅においておくことが大切なのだと、改めて知るのだった。



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