はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ミセス・ウィットモア

2008年11月16日 | はなし
 メトロポリタン美術館所蔵の絵画の一つを模写してみました。 初めて観た絵ですが、ビンガムというアメリカ人の描いた 『ミズーリ川を下る毛皮商人』。 1845年頃のものだそうです。


 
 「ワシントン会議」というものが1921年末から翌年2月までにかけて開かれた。これは第一次世界大戦の数年後の時期になる。アメリカの呼びかけでで開かれたこの会議は、世界史上初の軍縮会議であり、また、世界のパワーの主導権が、イギリスからアメリカへと移行したという意味で歴史的な会議であった。
 日本も参加した。日本からは、駐米大使・幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が全権を任されて出席した。

 その時期のある日、ワシントン日本大使館にあるアメリカ婦人が尋ねてきて、幣原に、日本のために協力したいと申し出た。自分の人脈をつかって、日本が不利とならないよう、宣伝をしてはどうかと。 その婦人はウィットモア夫人といい、城のような大きな家に住んでいて、彼女がパーティを開くと、副大統領をはじめ、有力な政治家が多数集まったという。それで、いろいろな政治家に会うのにたいへん都合が良いので、幣原もその招待には何度か出かけて行っていたのである。
 幣原は夫人の申し出に対しては、自分で努力するからと丁重に断ったのだが、するとウィットモア夫人は、「自分の目の前で、日本が英米から苛められるのを見るのは忍びないので、スイスにでも行ってくる。」といって、涙ぐみながら去ったという。
 しかしその軍縮会議の結果、彼女が心配したほど日本にとって不利な条件ではなかったので、「こんな嬉しいことはありません。」といい、ウィットモア夫人はスイスから戻ってきた。
 幣原は、夫人に、どうしてそんなに日本に同情的なのか、と尋ねると、自分はラフカディオ・ハーンの『心』を読んで非常に感動した、それ以来日本びいきなのだと彼女は答えた。
 その夫人以外にも、「日本を特別に愛する人たち」がアメリカにいて、幣原はそれをなぜだろうと思った。 そしてその人たちと話をしてその点について探ってみるうち、彼らのほとんどはラフカディオ・ハーンの本の愛読者なのだと気づいたという。
 ラフカディオ・ハーンとは、もちろん『怪談』でおなじみ小泉八雲のことである。
 

 幣原喜重郎は、日本へ帰る船の中で、偶然にウィットモア夫人と一緒になる。夫人もまた、日本へ行く予定であった。彼女はこれが4度目の日本訪問であった。
 その船の中で、ウィットモア夫人は、幣原に、「なぜ日本は、世界的に日本に貢献したラフカディオ・ハーンに対して冷たいのですか。ハーンの書いた本は、世界中に日本のファンをつくりました。それなのに、ハーンが死んでも、日本政府は彼らの遺族に対して何もしない。私は、ハーンとは縁もゆかりもない、赤の他人ですが、彼の遺族に会って、いくらかのお金の援助や心配をしています。でも、なぜ日本人は、それを考えてくれないのですか。」と詰め寄ったという。
 幣原は彼女のこの言葉に、胸を打たれた。彼は、小泉八雲記念館の建設や、松江のハーンの住んでいた家の保存に尽力したという。
 それを聞いて、ウィットモア夫人は「これでいっそう日本が懐かしいものになります!」と言って、大いに喜んだということである。


 ウィットモア夫人とは、エリザベス・ビスランドであった。「縁もゆかりもない赤の他人」などではありはしない。
 1900年から、ビスランドが10年ぶりにハーンに手紙を送ったことで、ハーンとビスランドとの書簡の交流は再開した。しかし、1904年9月26日、ラフカディオ・ハーンは日本でこの世を去ることとなった。
 するとビスランドは、「行動」を始めた。結婚して、ウィットモア夫人となった後、ずっと文筆業からは遠ざかっていたが、内に眠っていた彼女の炎が点火された。ビスランドは、日本にやってきて、ハーンの家族に会った。ニューヨークやニューオリンズの、ハーンの旧友たちに会い、話を聞き、彼らと交わされた書簡を集めた。ビスランドは、だれよりも、ラフカディオ・ハーンの才能と面白さを認めていた女性であった。
 こうして、2年後、『ラフカディオ・ハーン その生涯と書簡』がエリザベス・ビスランドの名によって編纂された。その当時の通信・交通事情からすれば、その仕事ぶりはじつに迅速なものであった。
 幣原喜重郎が会ったウィットモア夫人は、このビスランドの60歳の姿なのであった。この時の訪日では、ウィットモア夫人=ビスランドは、京都を大変気に入ってしばし滞在し、そしてさらにアジアへ行き、世界を旅して回ったということである。 (早周りではなく、ゆっくりと。)

       
 ウィットモア夫人(ビスランド)と小泉一雄(ハーンの長男)  1911年の写真


 もう一つ、(たいへん僕好みの)面白い話がある。
 この本には、もちろんハーンとビスランドの間に行き来した手紙の内容も掲載されている。 ところが…
 ところが、ビスランドは、これを一部削除していたという。
 その事実が判明したのは、つい10数年前のことだ。 1989年12月8日(この日はなんと、ビスランドが世界一周早周りの旅で初めて日本の土を踏んだ時からピッタリ100年後なのだ!)、ニューヨークで開かれたクリスティーのオークションにおいて、「ハーンのビスランド宛書簡」が売りに出されたからだった。 それは、「ハーンの‘心の恋人’ビスランドへのラブレター」として宣伝され、話題となって高値で落札された。その書簡の発見によって、ビスランドによる、ハーンの自分宛書簡の「一部削除」の事実が初めて明らかになったのだった。
 ビスランドは、自分にハーンが、恋のように気持ちを表現した部分(あるいは意味不明な表現の部分)を、『その生涯と書簡』には、入れなかったのである。 なぜビスランドはそうしたのか?

 何故だろう? ___謎である。 (謎だから、おもしろい。)

 
 「ハーンのビスランド宛書簡」は、彼女の生前はもちろんビスランド本人が持っていた。 そのエリザベス・ビスランド・ウィットモアは、1929年に亡くなった。彼女の残した遺産は莫大なものであった。 その中にその「書簡」もあったはずだが、どうやら売りに出されたようだ。
 また、フィラデルフィアにレイリー夫人という女性がいた。彼女は有名な「ラフカディオ・ハーンの初版本コレクター」であった。
 彼女のところに、ある書店から、これを買わないか、と持ち込まれたのが、ビスランドの持っていたハーンからの「書簡」というわけだ。 それを手に入れたレイリー夫人は、しかしこれを公表しなかった。 このこともまた非常に面白い。なぜかはわからないが、レイリー夫人はそれを「自分だけの秘密」としたのである。
 そして月日が過ぎ、そのレイリー夫人も死んで、それで「書簡」はまた売りに出されたのである。
 アメリカの古書店が落札したその「書簡」をその後、なんとしても日本に、と考えた人物がいて、それがロンドン漱石記念館館長の垣松邦生である。彼の努力があって、結局、「書簡」は日本人桑原春三氏の所蔵となって落ち着いた。 ハーンと漱石の‘奇縁’がここにもある。



 ところで、ビスランド(ウィットモア夫人)が死んだ後、ウィットモア夫妻には子供がなかったので、その莫大な財産の一部は、彼女の三人の妹とその子供達に贈られた。 ビスランドの遺言には、それ以外に、毎年1万ドルを、夫チャールズの姪にあたる女性に支払うよう記されていたという。ただし、それには奇妙な条件があって、もしその女性がローマ・カトリック教会に所属したときは、その支払いをただちに中止する、というものであった。(その理由はわからないという。) そしてどうやら、その女性は遺産を受け取る条件には「不適格」だったようだ。そうなると、その分のお金が宙に浮いてしまうが、これもビスランドの遺言では指示があって、ニューオリンズの結核患者のために使うように、ということであった。
 (ちなみに、ビスランドが死んだ1929年という年は、「大恐慌」の年である。)
 その遺産は、国税庁と遺族との主張でもめ、法廷闘争になった。それは長引き、なんと決着が着いたのは約30年後、1960年。その間に、凍結されて銀行に置かれたままになったその「遺産」はさらに利子で巨額にふくらんだ。 結局、ビスランドの「宙に浮いた遺産」は国税庁にも遺族にも渡らず、彼女の遺言通りに結核のために使われることとなったのだが、ただし、戦後、結核患者自体が減少している。 それでも、その結核患者のために使うビスランドの遺産を管理している団体は、ニューオリンズに現在も存在しているという。ウィットモア・クリニックおよび、ウィットモア・ファウンデーションである。結核は、近年になってまた増えているというから、その活動もきっと有意義なものになっているだろう。



 ところで、「ファウンデーション」って、何?   …って僕が思ったのは20歳の頃。

 と、いきなりここで話題がジャンプすることになるが、僕の場合、「ファウンデーション」の言葉で連想してしまうのは、アイザック・アシモフの『銀河帝国の興亡』のシリーズである。これは壮大なSF小説で、<ファウンデーション・シリーズ>とも呼ばれる…

 …などと書きはじめ、ここから架空の未来宇宙の話になったら収拾がつかない。やめておこう。
 では今日はこのへんで。

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