映画『遊星からの物体X』とともに借りてきたDVDが『アイ、ロボット』。 僕はこれ、以前にレンタルVで観た『A.I.』(監督スピルバーグ)とかん違いしていた。今の今まで。
この映画『アイ、ロボット』(2004年公開)は、ウイル・スミスが主役(刑事役)だが、映画の冒頭で彼が眠りから目覚め、起き上がって身仕度をするそのときに流れていた曲というのが、スティービー・ワンダーの「Superstition 」。(迷信という意味なんだね。) これはアルバム『Talking Book』の中に収められたノリの良い名曲で、昔僕もよく聞いたものだ。面白かったのは、一昨日見た『遊星からの物体X』でも、南極の基地の隊員がラジカセでやはりこの曲「Superstition 」を聴いていたことである。(こういう小さな偶然が僕にはほんとよく起こる。)
さて映画『アイ、ロボット』だが、これは暗くていけない。(予想通りではあったが。) 僕は、スピルバーグの『A.I.』もやっぱり好きじゃない。ロボットと未来を暗く描くというのは、「陳腐」だと思うんだよね。昔からあるSFの基本イメージなんだけど、こういうストーリーに触れると「SFってもういらない」と感じてしまう。
アイザック・アシモフの『ロビイ』に始まる<陽電子ロボットシリーズ>は、そういうSFにつきものの「暗さ」を吹き払ってしまったところに、その素晴らしさがあったと思うのだ。1940年代、50年代に書かれた彼のロボットものは、『われはロボット(I、Robot)』として一冊の本にまとまったわけだけど、これが映画『アイ、ロボット』の原案になっている。 けど、この内容では…。 まったく、これは、「あかるいアシモフ世界の破壊」だよ。 それこそ、大切なものなのに。
アシモフは1992年に亡くなっている。本業は化学者だった。
ところで、「陽電子(ポジトロン)脳」というのが、アシモフ型ロボットの基礎になっている。もちろんこの人工脳はアシモフの作り話だけど、「陽電子」は1932年に発見されたもので、架空のものではない。真空にガンマ線を当てるとマイナスの「電子」が生まれる。何もないところから、「電子」が生まれる(無から有が生まれる!)のはおかしい。だから、「陽電子」というものがきっと存在するはずだ…と、ディラックというイギリスの物理学者がそれ以前に予言していた。ディラック自身も半信半疑だったのだけれど、自分の書いた計算式を信じるなら、そう考えるしかない。 その「陽電子」が1932年に宇宙線の中から見つかったのだ。発見者はアメリカ物理学者アンダーソン。それで二人ともノーベル賞を受賞した。 「陽電子」は、思ったとおりに動かないので、最初は「ロバ電子」と呼ばれたとか。 発見される前、この「陽電子」は、質量もマイナス(!)であろうと考えられていたのである!
「ロボット」という語は、カレル・チャペック作『R.U.R』で使われたのが世界で最初である。チャペックはチェコの作家で、彼は「ロボット」の語は、兄ヨゼフ(絵を描いていた)が考えてくれた造語だという。 戯曲『R.U.R』(ロッサム・ユニバーサル・ロボット社の略)は、1921年に発表された。 これは今読んでもわかりやすくしかも抜群に面白い作品(僕はこの舞台を見たことがないけれど)だが、ここに、「ロボットの反乱→暗い未来」という図式がすでにみられるのである。
そのチャペック以来の、ロボットの暗いイメージの未来を、からっとした明るいものに変えたのがアシモフなのである。
アシモフの『ロビイ』では、女の子とロボット(ロビイ)の交流を描いている。
女の子は、ロビイを抱き上げて肩に乗せてくれと言う。が、ロビイは(わざとなのか)反応しない。それならと、女の子は泣いてみせるが、それでも(感情のない)ロビイは反応しない。
ところが、女の子には最終手段があった。女の子は、「肩にのせてくれないのなら、いいわ、もうお話を聞かせてあげないから!」という。すると、ロビイは困った顔(?)をして、女の子を抱き上げる。女の子は大満足。
そのあと、女の子はロビイに「お話」をしてあげる。もう何度もした話「シンデレラ]。 ロビイはこの話が大好きなのだ。何度聞いても、この「シンデレラ」をロビイは女の子から聞きたがる…。
そのとき、女の子のお母さんが声をかけた。お母さんは、女の子がロボットとばかり遊んで、友達をつくろうとしないことを心配している。それで、おかあさんは、ロビイをお払い箱にすることを決めた。
ロビイがいなくなった…そして、女の子は…
というような話です。 ぜひ読んでみて下さい。
『アシモフ自伝』の中に、1939年に開かれた第一回世界SF大会のこと書かれている。アシモフも参加したのだが、このとき大会で上映された映画が、1927年制作のドイツの無声映画『メトロポリス』。 アシモフもこれを観た。そして、
〔ひどいものだった。〕
と感想を、そのひと言だけ書いて切って捨てている。このような情緒のない、殺伐としたストーリー(100年後の未来都市の階級闘争を描いたもの、ロボットも登場する)は、アシモフの好みとは相容れないものなのである。
ところで、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、「電気リス」というものが出てきますが、御存知ですか。物語の終わりのほうです。
僕は『銀河鉄道の夜』はいつも途中まで読んでわけわからなくなって、それで最後のほうは読み飛ばしてしまっていたので、昔はこの「電気リス」の存在に気がつかなかったのですが。
〔ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金(きん)の円光をもった電気栗鼠(でんきりす)が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。〕
これは、なんなのでしょうか? ロボットなのでしょうか?
賢治が、科学というものに期待をしていたということになるのでしょうか? (彼も科学者でしたからね。)
それにしてもやっぱり謎だ、電気栗鼠。 こういう謎のところががおもしろいんだよね、賢治の書いた本は。
「物語」のなかのロボットの歴史を遡っていくと、フランケンシュタイン博士の造った「怪物」に行き着く、とされている。この物語はアルプスのレマン湖畔で誕生した。1816年。作者はイギリスの女流作家メアリー・シェリー。
さて、私事。
ブログを書くことは、たのしい。 こんなたわ言(近況雑記と読書感想文)を読んでくれる人がいて、ほんとうに感激です。
でも(あと数回書いて)やめようと決めました。その理由の第一は、「目が悪くなるから」です。いつの間にか、パソコンのバックライトの光を見ることに慣れてしまって、日常生活に暗さを感じるようになりました。きっと、これは身体も徐々に変になっているに違いありません。もともと僕はテレビ画面を観ることにも疲れを感じるほうですから、おそらく体質的に合わないのです。 (パソコンはブログ書くのと将棋のネット観戦ぐらいしか使っていませんが、それでも多すぎるようです。)
心身がきっと、サイバーパンク化してきてますねー。
人間の「神経」の伝達も電気信号ですが、これも「0」か「1」かの、デジタル信号です。きっと、パソコンに長時間向かっていると、身体の中も、「電気信号でいっぱい」になるんです。それで、「考える」という、神経の運動は活発になる。だから元気になったようになるけど(きっとそれは錯覚)、身体は神経細胞だけでできているわけじゃないですからねえ。
パソコンを見る時間を減らして(一日15分ぐらいが適当か)、心身をニュートラルに戻そうと思うのです。
あと2回は書く予定です。 「ケアル」と、それから、「宇宙船スカイラーク」について。 がんばろう!
1948年にアメリカでトランジスタが発明されました。このトランジスタの進化が、現在のコンピューターの世界を実現しました。1980年代に、サイバーパンクというのがSFの中で主流になりましたが、これは、人間(神経細胞)と機械(演算素子)との融合化をアイデアの柱としたもの。しかし、それもすでに現実の世界では「あたりまえ」のことのようになってきて、もはやSFにこのテーマを採り上げるのは、むしろ古いという感じ。
…といっても僕は最近のSF小説のことはさっぱり知らないのですけど、きっと新しいもの(未来に希望をもたらすもの)は、出ていないような気がします。読んでしあわせな気分にならないようなものなら、読んでも仕方ありませんね。
というわけで、SFは古典がいい。 古典SFを読もう! たのしくていいですよ!
真鍋博の(懐かしい)SF画も見たいなあ。
この映画『アイ、ロボット』(2004年公開)は、ウイル・スミスが主役(刑事役)だが、映画の冒頭で彼が眠りから目覚め、起き上がって身仕度をするそのときに流れていた曲というのが、スティービー・ワンダーの「Superstition 」。(迷信という意味なんだね。) これはアルバム『Talking Book』の中に収められたノリの良い名曲で、昔僕もよく聞いたものだ。面白かったのは、一昨日見た『遊星からの物体X』でも、南極の基地の隊員がラジカセでやはりこの曲「Superstition 」を聴いていたことである。(こういう小さな偶然が僕にはほんとよく起こる。)
さて映画『アイ、ロボット』だが、これは暗くていけない。(予想通りではあったが。) 僕は、スピルバーグの『A.I.』もやっぱり好きじゃない。ロボットと未来を暗く描くというのは、「陳腐」だと思うんだよね。昔からあるSFの基本イメージなんだけど、こういうストーリーに触れると「SFってもういらない」と感じてしまう。
アイザック・アシモフの『ロビイ』に始まる<陽電子ロボットシリーズ>は、そういうSFにつきものの「暗さ」を吹き払ってしまったところに、その素晴らしさがあったと思うのだ。1940年代、50年代に書かれた彼のロボットものは、『われはロボット(I、Robot)』として一冊の本にまとまったわけだけど、これが映画『アイ、ロボット』の原案になっている。 けど、この内容では…。 まったく、これは、「あかるいアシモフ世界の破壊」だよ。 それこそ、大切なものなのに。
アシモフは1992年に亡くなっている。本業は化学者だった。
ところで、「陽電子(ポジトロン)脳」というのが、アシモフ型ロボットの基礎になっている。もちろんこの人工脳はアシモフの作り話だけど、「陽電子」は1932年に発見されたもので、架空のものではない。真空にガンマ線を当てるとマイナスの「電子」が生まれる。何もないところから、「電子」が生まれる(無から有が生まれる!)のはおかしい。だから、「陽電子」というものがきっと存在するはずだ…と、ディラックというイギリスの物理学者がそれ以前に予言していた。ディラック自身も半信半疑だったのだけれど、自分の書いた計算式を信じるなら、そう考えるしかない。 その「陽電子」が1932年に宇宙線の中から見つかったのだ。発見者はアメリカ物理学者アンダーソン。それで二人ともノーベル賞を受賞した。 「陽電子」は、思ったとおりに動かないので、最初は「ロバ電子」と呼ばれたとか。 発見される前、この「陽電子」は、質量もマイナス(!)であろうと考えられていたのである!
「ロボット」という語は、カレル・チャペック作『R.U.R』で使われたのが世界で最初である。チャペックはチェコの作家で、彼は「ロボット」の語は、兄ヨゼフ(絵を描いていた)が考えてくれた造語だという。 戯曲『R.U.R』(ロッサム・ユニバーサル・ロボット社の略)は、1921年に発表された。 これは今読んでもわかりやすくしかも抜群に面白い作品(僕はこの舞台を見たことがないけれど)だが、ここに、「ロボットの反乱→暗い未来」という図式がすでにみられるのである。
そのチャペック以来の、ロボットの暗いイメージの未来を、からっとした明るいものに変えたのがアシモフなのである。
アシモフの『ロビイ』では、女の子とロボット(ロビイ)の交流を描いている。
女の子は、ロビイを抱き上げて肩に乗せてくれと言う。が、ロビイは(わざとなのか)反応しない。それならと、女の子は泣いてみせるが、それでも(感情のない)ロビイは反応しない。
ところが、女の子には最終手段があった。女の子は、「肩にのせてくれないのなら、いいわ、もうお話を聞かせてあげないから!」という。すると、ロビイは困った顔(?)をして、女の子を抱き上げる。女の子は大満足。
そのあと、女の子はロビイに「お話」をしてあげる。もう何度もした話「シンデレラ]。 ロビイはこの話が大好きなのだ。何度聞いても、この「シンデレラ」をロビイは女の子から聞きたがる…。
そのとき、女の子のお母さんが声をかけた。お母さんは、女の子がロボットとばかり遊んで、友達をつくろうとしないことを心配している。それで、おかあさんは、ロビイをお払い箱にすることを決めた。
ロビイがいなくなった…そして、女の子は…
というような話です。 ぜひ読んでみて下さい。
『アシモフ自伝』の中に、1939年に開かれた第一回世界SF大会のこと書かれている。アシモフも参加したのだが、このとき大会で上映された映画が、1927年制作のドイツの無声映画『メトロポリス』。 アシモフもこれを観た。そして、
〔ひどいものだった。〕
と感想を、そのひと言だけ書いて切って捨てている。このような情緒のない、殺伐としたストーリー(100年後の未来都市の階級闘争を描いたもの、ロボットも登場する)は、アシモフの好みとは相容れないものなのである。
ところで、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、「電気リス」というものが出てきますが、御存知ですか。物語の終わりのほうです。
僕は『銀河鉄道の夜』はいつも途中まで読んでわけわからなくなって、それで最後のほうは読み飛ばしてしまっていたので、昔はこの「電気リス」の存在に気がつかなかったのですが。
〔ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金(きん)の円光をもった電気栗鼠(でんきりす)が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。〕
これは、なんなのでしょうか? ロボットなのでしょうか?
賢治が、科学というものに期待をしていたということになるのでしょうか? (彼も科学者でしたからね。)
それにしてもやっぱり謎だ、電気栗鼠。 こういう謎のところががおもしろいんだよね、賢治の書いた本は。
「物語」のなかのロボットの歴史を遡っていくと、フランケンシュタイン博士の造った「怪物」に行き着く、とされている。この物語はアルプスのレマン湖畔で誕生した。1816年。作者はイギリスの女流作家メアリー・シェリー。
さて、私事。
ブログを書くことは、たのしい。 こんなたわ言(近況雑記と読書感想文)を読んでくれる人がいて、ほんとうに感激です。
でも(あと数回書いて)やめようと決めました。その理由の第一は、「目が悪くなるから」です。いつの間にか、パソコンのバックライトの光を見ることに慣れてしまって、日常生活に暗さを感じるようになりました。きっと、これは身体も徐々に変になっているに違いありません。もともと僕はテレビ画面を観ることにも疲れを感じるほうですから、おそらく体質的に合わないのです。 (パソコンはブログ書くのと将棋のネット観戦ぐらいしか使っていませんが、それでも多すぎるようです。)
心身がきっと、サイバーパンク化してきてますねー。
人間の「神経」の伝達も電気信号ですが、これも「0」か「1」かの、デジタル信号です。きっと、パソコンに長時間向かっていると、身体の中も、「電気信号でいっぱい」になるんです。それで、「考える」という、神経の運動は活発になる。だから元気になったようになるけど(きっとそれは錯覚)、身体は神経細胞だけでできているわけじゃないですからねえ。
パソコンを見る時間を減らして(一日15分ぐらいが適当か)、心身をニュートラルに戻そうと思うのです。
あと2回は書く予定です。 「ケアル」と、それから、「宇宙船スカイラーク」について。 がんばろう!
1948年にアメリカでトランジスタが発明されました。このトランジスタの進化が、現在のコンピューターの世界を実現しました。1980年代に、サイバーパンクというのがSFの中で主流になりましたが、これは、人間(神経細胞)と機械(演算素子)との融合化をアイデアの柱としたもの。しかし、それもすでに現実の世界では「あたりまえ」のことのようになってきて、もはやSFにこのテーマを採り上げるのは、むしろ古いという感じ。
…といっても僕は最近のSF小説のことはさっぱり知らないのですけど、きっと新しいもの(未来に希望をもたらすもの)は、出ていないような気がします。読んでしあわせな気分にならないようなものなら、読んでも仕方ありませんね。
というわけで、SFは古典がいい。 古典SFを読もう! たのしくていいですよ!
真鍋博の(懐かしい)SF画も見たいなあ。
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