1946年「升田幸三-木村義雄戦」。 「木村・升田五番勝負」の第3局、104手目の図。
戦時中、南海の島で「月が連絡してくれるなら~」と願った升田の望みが叶い、升田幸三は生きて日本に帰り、名人木村義雄との対局が実現した。
[なにしやがるんでえ]
番付将棋の決勝が昭和十八年、そのすこしあとに、こんなことがありました。
大阪の掘抜(ほりぬき)芳太郎という、将棋好きのメリヤス職人がおった。阪田三吉さんの弟子の藤内金吾さんと親しかったんですが、この人が目抜き帽子というのを発明した。頭からすっぽりかぶり、目のところだけあいとるやつです。外国の銀行強盗とか、そうそう、プロレスの悪役がよくかぶっとる覆面みたいなもんですな、これが掘抜帽子と呼ばれて大当たりし、シルクハットの流行などもあって大儲けをした。
成金がまず考えることといえば、豪勢な家を手に入れると相場が決まっておる。掘抜ダンナもご多分にもれず、六甲山にある下村海南の別宅を買い取った。家には芭蕉の句碑があり――(中略)――将棋指しでは藤内さんのほか、木村さんと私も招待された。
玄関を入ると、せまいくり抜き廊下がある。木村さんのあとを私が歩くんですが、和服姿の木村さんは、例によって状態をそらせ、もったいぶってゆったりと歩く。
「なにを格好つけやがって」
と、内心で舌打ちしとったら、うしろから軍人さんがやってきた。軍人さんだから歩くのが早い。だが前が木村さんで詰まっておる。追いついた軍人さんは、私の背にくっつくようにし、いらいらしとるのが手に取るようにわかるんだが、木村さんは知らん顔。いよいよそっくり返ってソロリ、ソロリと行く。
やがて小さな太鼓橋にさしかかった。階段をのぼるのに、木村さんがあんどんバカマをたくし上げ、くだりにかかって手を離す。ハカマのスソが、階段を引きずるようになる。それを見た私は、エイッとばかりスソを踏んづけた。ヨロヨロッとよろけた木村さんが、キッとなって振り向いた。
「なにしやがるんでえ」
顔にそう書いてあったが、私は天井を見上げて知らんぷりです。私の背後にはいら立った軍人さんの顔がある。それで木村さんも気がついたとみえ、そっくり返るのをやめて足を早めた。
(『名人に香車を引いた男』から)
升田幸三は、1941年から1945年までの6年間の間、将棋が指せたのは1年間だけである。軍務に就いていた期間はおよそ5年間。弟弟子の5歳年下の大山康晴ほ軍務はおそらくは1年くらいのものである。そうしてみると升田幸三は、戦争でいちばん損をした将棋指しなのかもしれない。
もし戦争がなければ、20代の升田幸三は木村名人を倒して天下を獲っていたのではないか。
ただ、20代で名人になったとしても、升田幸三の性質と将棋と体力は、名人位を何年も維持することには向いていなかった気はする。
だが、なにはともあれ、戦争を生き延びた。生きていれば、将棋が指せる。
〔 太平洋戦争が終わり、私は南洋の孤島ポナペから、やせ衰えた姿で帰国した。よく生きて帰れたと思う。とにかく、将棋を指せるようになったのはうれしかった。もちろん食っていくのは大変だったが、それはなにも棋士ばかりではなかった。〕 (『升田将棋撰集』)
〔 いつかは死ぬものと観念し、死ぬ前にもう一度、ぜひ木村名人と戦いたいと心に念じ、それを支えにして生きのびてきた。打倒木村の執念が、私の闘志をさかんにし、将棋をおとろえさせなかったんだと思う。〕(『名人に香車を引いた男』)
戦争が終わり、升田幸三は生きて日本へ戻った。
しばらく広島の田舎で疲れきった身体をやすめ、1946年から新たに創設された「順位戦」に参加した。八段にまだなっていなかった升田はB級リーグへの参加だった。
B級リーグを勝ち抜いて、A級リーグで上位になり、名人挑戦者決定戦を勝ち、それでやっと木村義雄名人に挑戦できる。どんなに勝ち続けても2年はかかる。
「待っちゃあおれん」と、升田幸三は『新大阪新聞』という新聞社に行き、木村と闘わせてくれ(スポンサーになってほしい)と頼み込んだ。それが受け入れられ、「木村・升田五番勝負」が企画されたのだった。おあそびの花将棋ではない、持ち時間9時間二日制、旅館で行う本格的な勝負将棋である。3年ぶりの対決となる。升田28歳、木村41歳。
升田の、“月への願い”が叶ったのである。
南海の戦場の孤島で、明日は死ぬかと覚悟をする中、夜、月を見上げて、名人木村義雄のことを思う。
これはまるで、恋人のようではないか。
月に、もう一度木村と将棋を指したい、と願った。月はその升田青年の願いを叶えてくれたのである。
【1946年 木村・升田五番勝負】
[第1局]
第1局30手
第1局は「香落ち」局。
この五番将棋をを、木村名人は受けた。ただし手合いは「香平」(半香)という条件でと、木村が条件を出した。「香落ち」と「平手」を交互に、という手合いである。順位戦創設では「総平手」を推し進めた木村義雄名人だったが、ここではなぜか“格”にこだわった。木村名人は「香落ち」の上手が得意だったということもある。
名人は「四間飛車」。 対して下手の升田は「棒銀」。
〔 振り飛車に対して棒銀というのは、今でこそ常識的な対策のひとつだが、当時はまったく考えられていない手法であった。対木村戦に備えて用意していた新手である。〕(升田将棋撰集)
下手2六銀に木村名人は1二飛。下手3五歩と仕掛け、木村名人は4二角と引いた。
升田は、上手の木村名人のこの応手は意外だったと述べている。4二角に、3八飛で、この図。
図以下は、5四歩、3四歩、6四角、3三歩成、同桂、同飛成、1九角成、2三竜、4二飛、3四歩、3二歩、3七桂、1八馬、3五銀、3六馬(次の図)と進む。
第1局 45手
こういうところは、ソフトで調べてもさっぱりどの手が良くてどの手が悪かったのかわからない。
3六馬としたこの図は、後手もやれるように見えるが、“序盤の天才”升田幸三に言わせれば、この辺りで「先手良し」のようだ。
図からの手順は、2四銀、3七馬、3三歩成、同歩、同銀成、2二歩、1三竜、4七馬、5八金右、4六馬、1一竜、6四馬、9七角(次の図)
この将棋は結局、升田にも木村にも失着のような手が出なかった。そしてそのまま下手の升田が押し切った。――ということは、このあたりか、もっと前に、“勝負どころ”があったのである。
こういうのが、升田幸三の理想の将棋なのだ。この面白さは、天才升田にしか、わからない。
「香落ち」の将棋は、序盤研究が大事である。のほほんと指していると、だいたい上手のペースになる。そうならないように、「作戦」をしっかり組み立てておく必要があるのだ。
そういう意味では、「香落ち」の下手は、序盤巧者の升田幸三にピッタリ合う将棋といえるだろう。
第1局58手
〔 ▲9七角が好手。全局を引き締めている馬と、半ば遊んでいる角を交換しようというわけだ。
名人の顔色が変わったのを見た。もう負けないと思った。〕(升田将棋撰集)
9七角成、同桂、6四角、8六角、同角、同歩、6四角、6六歩、5一香、7七銀、3二歩、4二成銀、同金、6五歩、3七角成、2一飛と進む。
第1局74手
〔 ▲2一飛と二丁飛車で攻めて勝ちはもうすぐそこ。〕(同上)
2一飛は74手目。上手は5二金左としたが、4二歩があった。以下、90手で下手快勝となった。
この将棋は、升田にも、木村にも、失着といえる手が一つもない。
升田幸三が、升田幸三らしい将棋を指して勝った将棋――つまり升田の理想とする将棋――というのは、アマ将棋ファンからすれば、“面白くない将棋”かもしれない。(ポカのない升田将棋なんて…)
この将棋、「序盤」のどこかで勝負を分けたのだが、それがどこかよく判らないのだ。升田幸三だけが、わかっている。
というか、升田は元々「香落ちは下手必勝」と言っている。それを証明した形となった。「序盤」から下手に与えられた微差のリードを、ゆるむことなく攻めて拡げ、完勝したのである。
これが升田の理想の将棋であった。たぶん升田幸三は、「序盤」を、我々が想像するものをはるかに超える情熱をもって、指しているのである。
さあ、「半香」の手合いで、まず「香落ち」では勝った。
次は「平手」戦だ。升田はまだ「平手」ではまだ木村に勝ったことがない。(あの、痛恨の2一飛…)
[第2局]
第2局 32手
昭和初期の木村・花田の時代は、「5筋を突きあう相掛かり」が主流だった。先手なら5七銀、後手なら5三銀が、銀の理想の位置だったからだ。ところがたまに、どちらかが5筋を突かないとなると、すかさず5五歩の位(くらい)を取られることになる。そうすると「5筋位取り」になり、その位をがっちり守るために飛車を中央に、という展開によくなった。(参考棋譜→『木村義雄、花田長太郎をふっ飛ばす』)
この図が、そういう将棋である。木村名人は飛車先の歩を切るよりも「5五歩の位」を取ることを優先させた。
先手の升田が2六飛と浮き飛車に構え、右銀を3七~4六と繰り出して、3五歩と仕掛けた。
対して、後手木村名人は、4四角。それがこの図。
この図から、6八銀、5一金、3六飛、3五歩、同銀、4五銀、3八飛、6二角、4六歩、5四銀、3四銀(次の図)
途中、6二角と引く手に代えて、3五角、同飛、3六銀打には、升田は1八角のつもりであった。
第2局43手
ここで後手の木村義雄は、7四歩と突いた。
升田幸三、2八飛。
それを見て木村名人は小声で「あっ」と言った。なんと、2八飛を見落としていたのだという。
2三銀成を受ける手がない!(7四歩では3三歩と一旦受けるしかなかった)
7四歩(44手目)が“ポカ”だった。将棋は「ミスをしないように頑張るゲーム」のようである。名人レベルの人でも、持ち時間9時間の将棋でこういう見落としをするのだ。
名人は3三銀とし、2三銀成に、2六歩とした。以下、2四歩、4二金右、5六歩(次の図)
第2局 51手
5六歩から升田が“決め”に行った。実戦は、以下3五角、5五歩、6五銀、5四歩、同銀、3四歩、4四銀、4七金、7五歩、3六金、7六歩と進んだ。形勢不利とみた後手木村名人が、角をおとりにして7五歩~7六歩と勝負にきた。
ミスはしたが、木村名人には「二枚腰」がある。勝負はこれからだ。
この形、先手はこのままだと7七の角が使えないので、どこかで5六歩と先手から突くか、または9五角と使う手になる。どちらも、そのタイミングが大事である。アマにはちょっとそこが難しい。
5六歩に、同歩なら、どうなるのだろう? 『升田将棋選集』にはその解説がないが、アマとしては興味があるところだ。それを研究してみた。
5六同歩、3四歩、4四銀、3二成銀、同金、2六飛、2二歩、2五飛(この手では2三金も有力)、7三桂(次の図)
参考図A1
ここでどうやるか。升田幸三はどう指す予定だったのだろう?
「激指」は、7二金や、6六歩、9五角、5五歩などが候補手である。だが7二金は、5一角、6一金、4二角、9五角、6四角となると逆転模様。7二金、5一角に、4四角、同歩、6一銀という攻めはあるが、これは決めそこなうと負ける。6六歩(後手6五桂を消した)は、5五銀直で、先手あまり面白くない。
検討の結果、ここはどうやら、5五歩が良さそうだ。
5五歩、同銀左に、5三歩。 これを同角なら5五角なので、後手5三同飛。
そこで6一金がある。
参考図A1
6五桂、6二金、7七桂不成、同桂、4九銀、6五桂打(次の図)
7七桂不成に同桂として、この桂馬を攻めに使う。
参考図A2
6五桂打(図)。これで先手勝ち。
後手玉は2二歩としてむこうに逃げられないような形になっているので、5三の地点を攻めるのがこの場合はきわめて有効な攻めとなるのだ。
こうなっては後手まずいので、先の5五歩に対しては6五銀が考えられるが、その場合は4五歩と攻める。対して3六銀なら、2八飛と引いて、4五銀引、9五角となる(次の図)
参考図A3
先手は4五に打った歩をタダで取られてしまったが、「一歩を犠牲に銀を使わせた」と思えばよい。
9五角(図)と角を出て、次に6一金(または7二金)をねらいとする。適当な受けがない。先手成功。
第2局 69手
実戦は、木村名人が逆転をねらってより複雑な順を選んだが、升田に決め手が出た。やはり実戦でも9五角が実現し、9四歩、8四角、8二飛に、5一金(図)
3一玉なら、7五角で、角がたすかる。なので名人は勝負と4二玉(7五角なら5一玉で金が取れる)としたが、そこで3五金、同銀に、5三歩が“決め手”。 以下、3一玉、5二歩成、8四飛、5三角、2二玉、3五角成。
〔 ▲3五角成に、しばらく盤上を見つめておった名人は、「時間がない…。もう駄目だ」といって投了された。平手での初勝利だった。〕(升田将棋選集)
「5筋を突きあう相掛かり」は、戦後、流行らなくなった。4筋を突いて5六銀の腰掛銀型や、「棒銀」が流行りはじめたからで、これは別に、「5筋を突く相掛かり」が分のわるい戦法となったからではない。またそれが流行ることが未来にあるかもしれない。
[第3局]
第1局、第2局は1946年9月に、間を開かずに実施された。ところが第3局が実施されたのは3か月後の12月。
升田幸三が2連勝したので、将棋大成会(今の日本将棋連盟)の幹部たちから「待った」がかかった。その番勝負、中止せよ、というのである。10年近く名人位を守ってきた木村義雄が七段の升田にこのまま3連敗したらどうする、名人の権威が~、というわけだ。
予定では、「半香」という手合いで指し、仮にどちらかが2連勝すれば手合いを変える、という事前の決まり事で始まったこの五番勝負であった。木村名人が2連勝なら「香」という手合いになるし、升田が2連勝なら「平手」となる。実際は升田2連勝だったので、「平手」になるはずだが、このケースをもともと想定していなかったらしい。「おれが連敗するわけがない」と、あの無敵の木村義雄名人が言っているわけだし…ということで。プロ棋士の駒落ち戦が廃止される前後のこの時期まで、将棋指しにとっては、「手合い」と段位いうものが、いちいちこのようにもめるほどに重要な事項だったのである。
木村名人も升田も成行きを見守って静観していたが、五番勝負が途中で終わるのもみっともないことである。やがて木村名人が口を開いた。
「約束通りあとを指しましょう。半香で二番負けたのだから、次からの手合いは平手でよろしい」
木村義雄のこうしたところを、升田幸三も手離しで称賛する。
〔 「てめえに都合のいいことだけをいっちゃなんねえ」というんで、江戸っ子気質なんですな。〕(名人に香車を引いた男)
47手
戦型は「相掛かり」。当時5筋の歩を突かない(4筋を突く)相掛かりは珍しかったので、これを専売特許のようによく指していた小堀清一の名を冠して「小堀流」とこの当時は呼ばれていた。
後手木村名人の「棒銀」が、戦中・戦前にはめずらしい指し方。5四歩として、中央に銀を構える形で大事な勝負をこれまで“常勝”してきた木村名人だったが、木村も“新しい時代”の風を感じて、それに乗って動いてきているようだ。
〔 いつも羽織ハカマの名人が、国民服を着とるんです。これは名人が名人というカミシモをかなぐり捨て、ハダカの勝負をしようというんじゃないか。小柄な体に生気がみなぎり、なにかピリピリするものを発散させておる。〕(名人に香車を引いた男)
図は、先手の升田幸三が「攻め」を決断して、3筋と1筋の歩を突き捨てた後、2四歩と合わせ、2四同歩、同飛、2三歩、6四飛、6三歩、3四飛と進んだところ。
(この将棋の全棋譜はこちらの記事で→『端攻め時代の曙光1』)
第3局68手
升田が攻めて開戦し、「中盤」の勝負どころになった。先手の升田幸三が工夫を凝らして攻めているが、後手の木村義雄名人の対応が的確で、先手の攻め筋が細くなってきている。
図で1五歩なら、後手は3二玉と指し、1四歩、同銀となると、先手は攻めあぐんでいる。
2五桂と升田は指した。同桂と取らせて、2二角成、同銀、3二金、5一玉、2二金、6一玉、3一飛成、5一香と進む。強引な攻めだが、升田は「これでやれる」と思い、後手木村も「無理攻めだ、自分が良い」と思っている。実際は升田の攻めが細く、しかし、これしかなかった。
すでに木村名人の術中にハマッている――木村がこのまま勝てば、そういう描き方になっていただろう。
そこで升田は、4四歩と突いた。これで攻めは切れない、やれる、と。
木村は3七桂成。升田、5六銀。
そこで打った2五角が木村義雄の“失着”だった。
第3局82手
〔かまっちゃおれんと名人は△3七桂成だが、▲5六銀に△2五角が失着。私の俗手▲3四銀を見て顔色が変わった。悪くても▲4四歩を同歩と取り、私の3二金から4三歩にはじっと耐えるよりなかったのである。△5八角成と切って、△4四歩と手が戻るようでは調子がおかしかろう。〕 升田幸三は『升田将棋選集』の解説でこう言っている。
どうやら名人は2五角に対しての升田の次の手3四銀が見えていなかった。この手では升田解説の通り、4四同歩がよかった。解説で升田幸三はそれで先手良しというふうに言っているが、4四同歩と取れば、どうやらその局面は後手の木村名人ぺースの将棋になる。
4四同歩には、先手は「4三歩」と「3二金」が指したい手だが、この2手を両方指さないと攻めにならない。だから、たとえば4三歩には、そこで後手2五角と打って――(次の図=参考図B1)
参考図B1
このタイミングでの2五角なら、次の後手の4八成桂が厳しく、先手の3二金から4二歩成の攻めは一歩遅い。2五角に5八玉としても、6四桂で、先手が悪そうだ。
図で2六銀には3六角だし、どうもここで先手に良い手がないのである。図で最善のがんばりは、3五竜だろう。以下、2四歩、同竜、3六角が予想されるが、後手ペースの将棋である。
実戦は、木村名人の(3四銀の)見落としがあって、「後手有利」だった形勢の針が「互角」ちかくに戻されたという将棋。
升田幸三の攻めの迫力が、木村義雄を間違わせたのかもしれない。
とにかく、ギリギリの勝負将棋となって、終盤突入である。
木村は5八角成と切って、攻め合いに。
第3局94手
進んで、こうなった。
〔 ▲4一歩成で勝ちが見えたと思ったが、△4八馬にひょいと▲6八玉とやったのがひどい落手だった。△5八金を見落としていた。△6七玉なら勝ちである。〕(升田将棋撰集)
升田幸三に“ポカ”が出た。これは負けてもしかたないような単純なミスである。
6八玉としたがそれが失着で、正着は6七玉だという。
この将棋、持ち時間は各9時間。最終的に升田は1時間を残しているので、時間は十分にあったはず。
6七玉以下はどうなるのだろうか。それを研究してみた。(ほんとうに先手が勝つのだろうか)
6七玉、4七成桂、5一と、同金、7七玉(次の図)
参考図B2
はたしてこれで「先手良し」なのだろうか。
この7七玉が好手である。5七成桂なら、5二歩という手が生じて一気に先手優勢がはっきりする。
だからここは、5九馬、6八香、そこで7五歩でどうなるか。
以下、7九銀、7六歩、8八玉、8六歩、4三角、5二金打、同角成、同玉、8六歩、8七歩、9八玉(次の図)
参考図B3
こうなると先手が良いようだ。次に7四歩がある。
我々のソフトを使った研究でも、一応、升田幸三のいう通り、確かに先手良しとなった。(他の変化もあるので先手勝ちとまで断定することはできないけれど)
第3局95手
実戦は6八玉とした。升田の“ポカ”。
以下、5八金(この単純な手をうっかりしたという)、7七玉、5九馬に、6八角(角で「合い」をしなければならなくなった!)
同金、同金、4九角。
〔一分で△4九角。こう打たれてはたしかに負けなんだが、対局中はなぜか負ける気がしなかった。もし弱気になっていたら負けていたろう。〕(升田将棋撰集)
升田、7九銀。木村、8八歩(次の図)
第3局手104手
〔残り五分――名人△8八歩。ここで初めて私は香を取って、▲8六香。「あっ」と言った名人。△8八歩はポカのお返しだったのである。〕(升田将棋撰集)
なんというミス!
5一と、同金と、升田は香車を取って、8六香(次の図)
第3局107手
図以下、8九歩成、8二香成、同銀、3二飛まで、111手で木村義雄名人が投了。
升田幸三七段の勝ちとなった。
かくして、「木村・升田五番勝負」は、升田幸三の3連勝で幕を閉じた。
参考図B4
ところで、104手目の8八歩(木村のポカ)で、代えて7五歩なら、この将棋はこの後、どのようになっていたのだろうか。
最後にその研究結果を示しておく。
升田幸三は「4九角。こう打たれてはたしかに負けなんだが―」と言っているが…
7五歩に、6九金打(7八金打には7六桂がある)、同馬、同金、7六歩、8八玉、7七歩成、同桂(同玉は7六金があって先手負け)、7六歩、4三角、5二金打、8三香(次の図)
参考図B5
7七歩成、同玉、7六歩、8八玉、7二飛、7八歩、6七角成、3二金、6六馬、9八玉(次の図)
参考図B6
これは先手良し。9五歩なら、4二金で、先手の攻めの方が早い。そして後手の受けも難しい。
ということは、先手がそれでも勝っていたのか?、ということにもなるが――
ところが、この手順を途中(参考図B5=先手8三香)まで戻って、7七歩成、同玉、7六歩、8八玉の後に、8三飛と香車を素直に取る手が正着だった。(この手順はソフト「激指」も警戒して最後に考える順のようだ)
以下、先手は5二角成、同玉、4三銀成、6一玉、5一竜、7二玉(次の図)となる。
参考図B7
ここから7一金、8二玉、8一金、9三玉と追っても、どうやら先手が勝てない。先手玉に“詰めろ”がかかっており(7七歩成、同玉、6七馬、同玉、7五桂以下)、したがって図で5三成銀もない。5二竜も6二銀で、先手は受けにまわらなければならない。5二竜、6二銀、7四金が7五桂を防いで一応攻防の手だが、7七歩成、同玉、6七角成、同玉、8七飛成から、7七歩合に5五桂からの詰め手順もあって、やはり先手負けだ。
ということで、104手目(8八歩に代えて)7五歩は、我々の研究でも、やはり升田解説にあるように「後手良し」という結論に辿り着いた。(調べつくしたわけではないので、とりあえずの結論であるが、8三香が利かないのであれば先手が勝つのは難しそうだ)
それにしても、やはり将棋は「ミスした方が負けるゲーム」なのだと思う。
この木村名人の“ポカ”。これが勝負を決めた。
1943年の「升田-木村戦」の時は、不利な木村名人が、逆転するような仕掛けをつくり、その網に升田が入っていき、それを仕留めて逆転したような将棋だった。升田幸三が心理的に焦ってしまったために、勝ちを逃してしまった。升田は「2一飛のポカで負けた」ということにしているが、実際はそうではなく、木村将棋の持つ終盤の逆転術に力負けしたのである。
この「五番勝負」では、逆に、木村義雄名人の“ポカ”が目立つ結果となった。
これは升田の攻めの迫力に、木村名人が気圧されたのかもしれない。そういう印象の、木村名人の“ポカ”だった。戦場を体験した升田幸三には、将棋の技術にプラスして、何か迫力が身についたのかもしれない。
同じ逆転するにしても、迫力で押す升田と、泰然自若として余裕を見せて相手を転ばせる木村、逆転の技も人それぞれである。逆転するためには、相手にミスをしてもらわなければならない。そうなると、それは将棋の技術だけではなく、「何か」がさらに必要なのである。
あらためて、この図を見て、思う。
プロ棋士の将棋で、これほどに、さわやかな“ポカ”も、めったにない気がする。わかりやすくてよい。
我々素人にとっては、“ポカ”こそ、将棋の華である。
青年升田幸三の、木村義雄名人との対決の物語はこれでおしまい。
続いて、将棋界は「木村・塚田・升田・大山」の四強時代となる。
木村・升田に関しては、全日本選手権戦(1949年、竜王戦のルーツとなる棋戦)、名人戦(1951年)、王将戦(1952年)での番勝負の闘いがあるが、それはまた別の物語。
升田幸三は1946年度の順位戦(B級)を12勝2敗の成績をおさめ、翌年度はA級八段になった。
最後に余談を。升田幸三は碁を打つのが好きだったが、それにまつわる1946年のエピソード。
〔 定跡通と呼ばれた平野さん(平野信助のこと)は、碁も強かった。ある時、松浦卓造さんが「七子でどうですか」と手合わせを申し込んだ。「下手ごなし」は自信があったとみえ、即座に「目碁で打とう」と話が決まった。つまり賭け碁である。と言ってもお金ではない。平野さんが負けたらリンゴ。当時は食料難の時代だからめったに手に入らないものだ。平野さんは青森に住んでいた。
徹夜で打って松浦さんは四子まで追い上げ、抱え切れないほどのリンゴを貰った。私もそのおすそわけをいただいたものだ。ちなみに当時私は、平野さんに定先だった。〕(升田将棋撰集)
平野信助は丸田祐三の師匠。1946年度を持って現役を引退した。(→『平野流(真部流)』)
また松浦卓造は広島出身の棋士でこのエピソードの年はまだ31歳。升田幸三も広島出身である。
升田幸三の弟子に桐谷広人(最近はキャラがユニークということでTVに出て顔が知られるようになった引退棋士)がいて、この人も広島出身だが、松浦卓造の紹介で升田の弟子になったらしい。「この子は口が達者だ。升田幸三に合うかもしれない」と思って、松浦が、升田に縁を結んだのではと想像する。
戦時中、南海の島で「月が連絡してくれるなら~」と願った升田の望みが叶い、升田幸三は生きて日本に帰り、名人木村義雄との対局が実現した。
[なにしやがるんでえ]
番付将棋の決勝が昭和十八年、そのすこしあとに、こんなことがありました。
大阪の掘抜(ほりぬき)芳太郎という、将棋好きのメリヤス職人がおった。阪田三吉さんの弟子の藤内金吾さんと親しかったんですが、この人が目抜き帽子というのを発明した。頭からすっぽりかぶり、目のところだけあいとるやつです。外国の銀行強盗とか、そうそう、プロレスの悪役がよくかぶっとる覆面みたいなもんですな、これが掘抜帽子と呼ばれて大当たりし、シルクハットの流行などもあって大儲けをした。
成金がまず考えることといえば、豪勢な家を手に入れると相場が決まっておる。掘抜ダンナもご多分にもれず、六甲山にある下村海南の別宅を買い取った。家には芭蕉の句碑があり――(中略)――将棋指しでは藤内さんのほか、木村さんと私も招待された。
玄関を入ると、せまいくり抜き廊下がある。木村さんのあとを私が歩くんですが、和服姿の木村さんは、例によって状態をそらせ、もったいぶってゆったりと歩く。
「なにを格好つけやがって」
と、内心で舌打ちしとったら、うしろから軍人さんがやってきた。軍人さんだから歩くのが早い。だが前が木村さんで詰まっておる。追いついた軍人さんは、私の背にくっつくようにし、いらいらしとるのが手に取るようにわかるんだが、木村さんは知らん顔。いよいよそっくり返ってソロリ、ソロリと行く。
やがて小さな太鼓橋にさしかかった。階段をのぼるのに、木村さんがあんどんバカマをたくし上げ、くだりにかかって手を離す。ハカマのスソが、階段を引きずるようになる。それを見た私は、エイッとばかりスソを踏んづけた。ヨロヨロッとよろけた木村さんが、キッとなって振り向いた。
「なにしやがるんでえ」
顔にそう書いてあったが、私は天井を見上げて知らんぷりです。私の背後にはいら立った軍人さんの顔がある。それで木村さんも気がついたとみえ、そっくり返るのをやめて足を早めた。
(『名人に香車を引いた男』から)
升田幸三は、1941年から1945年までの6年間の間、将棋が指せたのは1年間だけである。軍務に就いていた期間はおよそ5年間。弟弟子の5歳年下の大山康晴ほ軍務はおそらくは1年くらいのものである。そうしてみると升田幸三は、戦争でいちばん損をした将棋指しなのかもしれない。
もし戦争がなければ、20代の升田幸三は木村名人を倒して天下を獲っていたのではないか。
ただ、20代で名人になったとしても、升田幸三の性質と将棋と体力は、名人位を何年も維持することには向いていなかった気はする。
だが、なにはともあれ、戦争を生き延びた。生きていれば、将棋が指せる。
〔 太平洋戦争が終わり、私は南洋の孤島ポナペから、やせ衰えた姿で帰国した。よく生きて帰れたと思う。とにかく、将棋を指せるようになったのはうれしかった。もちろん食っていくのは大変だったが、それはなにも棋士ばかりではなかった。〕 (『升田将棋撰集』)
〔 いつかは死ぬものと観念し、死ぬ前にもう一度、ぜひ木村名人と戦いたいと心に念じ、それを支えにして生きのびてきた。打倒木村の執念が、私の闘志をさかんにし、将棋をおとろえさせなかったんだと思う。〕(『名人に香車を引いた男』)
戦争が終わり、升田幸三は生きて日本へ戻った。
しばらく広島の田舎で疲れきった身体をやすめ、1946年から新たに創設された「順位戦」に参加した。八段にまだなっていなかった升田はB級リーグへの参加だった。
B級リーグを勝ち抜いて、A級リーグで上位になり、名人挑戦者決定戦を勝ち、それでやっと木村義雄名人に挑戦できる。どんなに勝ち続けても2年はかかる。
「待っちゃあおれん」と、升田幸三は『新大阪新聞』という新聞社に行き、木村と闘わせてくれ(スポンサーになってほしい)と頼み込んだ。それが受け入れられ、「木村・升田五番勝負」が企画されたのだった。おあそびの花将棋ではない、持ち時間9時間二日制、旅館で行う本格的な勝負将棋である。3年ぶりの対決となる。升田28歳、木村41歳。
升田の、“月への願い”が叶ったのである。
南海の戦場の孤島で、明日は死ぬかと覚悟をする中、夜、月を見上げて、名人木村義雄のことを思う。
これはまるで、恋人のようではないか。
月に、もう一度木村と将棋を指したい、と願った。月はその升田青年の願いを叶えてくれたのである。
【1946年 木村・升田五番勝負】
[第1局]
第1局30手
第1局は「香落ち」局。
この五番将棋をを、木村名人は受けた。ただし手合いは「香平」(半香)という条件でと、木村が条件を出した。「香落ち」と「平手」を交互に、という手合いである。順位戦創設では「総平手」を推し進めた木村義雄名人だったが、ここではなぜか“格”にこだわった。木村名人は「香落ち」の上手が得意だったということもある。
名人は「四間飛車」。 対して下手の升田は「棒銀」。
〔 振り飛車に対して棒銀というのは、今でこそ常識的な対策のひとつだが、当時はまったく考えられていない手法であった。対木村戦に備えて用意していた新手である。〕(升田将棋撰集)
下手2六銀に木村名人は1二飛。下手3五歩と仕掛け、木村名人は4二角と引いた。
升田は、上手の木村名人のこの応手は意外だったと述べている。4二角に、3八飛で、この図。
図以下は、5四歩、3四歩、6四角、3三歩成、同桂、同飛成、1九角成、2三竜、4二飛、3四歩、3二歩、3七桂、1八馬、3五銀、3六馬(次の図)と進む。
第1局 45手
こういうところは、ソフトで調べてもさっぱりどの手が良くてどの手が悪かったのかわからない。
3六馬としたこの図は、後手もやれるように見えるが、“序盤の天才”升田幸三に言わせれば、この辺りで「先手良し」のようだ。
図からの手順は、2四銀、3七馬、3三歩成、同歩、同銀成、2二歩、1三竜、4七馬、5八金右、4六馬、1一竜、6四馬、9七角(次の図)
この将棋は結局、升田にも木村にも失着のような手が出なかった。そしてそのまま下手の升田が押し切った。――ということは、このあたりか、もっと前に、“勝負どころ”があったのである。
こういうのが、升田幸三の理想の将棋なのだ。この面白さは、天才升田にしか、わからない。
「香落ち」の将棋は、序盤研究が大事である。のほほんと指していると、だいたい上手のペースになる。そうならないように、「作戦」をしっかり組み立てておく必要があるのだ。
そういう意味では、「香落ち」の下手は、序盤巧者の升田幸三にピッタリ合う将棋といえるだろう。
第1局58手
〔 ▲9七角が好手。全局を引き締めている馬と、半ば遊んでいる角を交換しようというわけだ。
名人の顔色が変わったのを見た。もう負けないと思った。〕(升田将棋撰集)
9七角成、同桂、6四角、8六角、同角、同歩、6四角、6六歩、5一香、7七銀、3二歩、4二成銀、同金、6五歩、3七角成、2一飛と進む。
第1局74手
〔 ▲2一飛と二丁飛車で攻めて勝ちはもうすぐそこ。〕(同上)
2一飛は74手目。上手は5二金左としたが、4二歩があった。以下、90手で下手快勝となった。
この将棋は、升田にも、木村にも、失着といえる手が一つもない。
升田幸三が、升田幸三らしい将棋を指して勝った将棋――つまり升田の理想とする将棋――というのは、アマ将棋ファンからすれば、“面白くない将棋”かもしれない。(ポカのない升田将棋なんて…)
この将棋、「序盤」のどこかで勝負を分けたのだが、それがどこかよく判らないのだ。升田幸三だけが、わかっている。
というか、升田は元々「香落ちは下手必勝」と言っている。それを証明した形となった。「序盤」から下手に与えられた微差のリードを、ゆるむことなく攻めて拡げ、完勝したのである。
これが升田の理想の将棋であった。たぶん升田幸三は、「序盤」を、我々が想像するものをはるかに超える情熱をもって、指しているのである。
さあ、「半香」の手合いで、まず「香落ち」では勝った。
次は「平手」戦だ。升田はまだ「平手」ではまだ木村に勝ったことがない。(あの、痛恨の2一飛…)
[第2局]
第2局 32手
昭和初期の木村・花田の時代は、「5筋を突きあう相掛かり」が主流だった。先手なら5七銀、後手なら5三銀が、銀の理想の位置だったからだ。ところがたまに、どちらかが5筋を突かないとなると、すかさず5五歩の位(くらい)を取られることになる。そうすると「5筋位取り」になり、その位をがっちり守るために飛車を中央に、という展開によくなった。(参考棋譜→『木村義雄、花田長太郎をふっ飛ばす』)
この図が、そういう将棋である。木村名人は飛車先の歩を切るよりも「5五歩の位」を取ることを優先させた。
先手の升田が2六飛と浮き飛車に構え、右銀を3七~4六と繰り出して、3五歩と仕掛けた。
対して、後手木村名人は、4四角。それがこの図。
この図から、6八銀、5一金、3六飛、3五歩、同銀、4五銀、3八飛、6二角、4六歩、5四銀、3四銀(次の図)
途中、6二角と引く手に代えて、3五角、同飛、3六銀打には、升田は1八角のつもりであった。
第2局43手
ここで後手の木村義雄は、7四歩と突いた。
升田幸三、2八飛。
それを見て木村名人は小声で「あっ」と言った。なんと、2八飛を見落としていたのだという。
2三銀成を受ける手がない!(7四歩では3三歩と一旦受けるしかなかった)
7四歩(44手目)が“ポカ”だった。将棋は「ミスをしないように頑張るゲーム」のようである。名人レベルの人でも、持ち時間9時間の将棋でこういう見落としをするのだ。
名人は3三銀とし、2三銀成に、2六歩とした。以下、2四歩、4二金右、5六歩(次の図)
第2局 51手
5六歩から升田が“決め”に行った。実戦は、以下3五角、5五歩、6五銀、5四歩、同銀、3四歩、4四銀、4七金、7五歩、3六金、7六歩と進んだ。形勢不利とみた後手木村名人が、角をおとりにして7五歩~7六歩と勝負にきた。
ミスはしたが、木村名人には「二枚腰」がある。勝負はこれからだ。
この形、先手はこのままだと7七の角が使えないので、どこかで5六歩と先手から突くか、または9五角と使う手になる。どちらも、そのタイミングが大事である。アマにはちょっとそこが難しい。
5六歩に、同歩なら、どうなるのだろう? 『升田将棋選集』にはその解説がないが、アマとしては興味があるところだ。それを研究してみた。
5六同歩、3四歩、4四銀、3二成銀、同金、2六飛、2二歩、2五飛(この手では2三金も有力)、7三桂(次の図)
参考図A1
ここでどうやるか。升田幸三はどう指す予定だったのだろう?
「激指」は、7二金や、6六歩、9五角、5五歩などが候補手である。だが7二金は、5一角、6一金、4二角、9五角、6四角となると逆転模様。7二金、5一角に、4四角、同歩、6一銀という攻めはあるが、これは決めそこなうと負ける。6六歩(後手6五桂を消した)は、5五銀直で、先手あまり面白くない。
検討の結果、ここはどうやら、5五歩が良さそうだ。
5五歩、同銀左に、5三歩。 これを同角なら5五角なので、後手5三同飛。
そこで6一金がある。
参考図A1
6五桂、6二金、7七桂不成、同桂、4九銀、6五桂打(次の図)
7七桂不成に同桂として、この桂馬を攻めに使う。
参考図A2
6五桂打(図)。これで先手勝ち。
後手玉は2二歩としてむこうに逃げられないような形になっているので、5三の地点を攻めるのがこの場合はきわめて有効な攻めとなるのだ。
こうなっては後手まずいので、先の5五歩に対しては6五銀が考えられるが、その場合は4五歩と攻める。対して3六銀なら、2八飛と引いて、4五銀引、9五角となる(次の図)
参考図A3
先手は4五に打った歩をタダで取られてしまったが、「一歩を犠牲に銀を使わせた」と思えばよい。
9五角(図)と角を出て、次に6一金(または7二金)をねらいとする。適当な受けがない。先手成功。
第2局 69手
実戦は、木村名人が逆転をねらってより複雑な順を選んだが、升田に決め手が出た。やはり実戦でも9五角が実現し、9四歩、8四角、8二飛に、5一金(図)
3一玉なら、7五角で、角がたすかる。なので名人は勝負と4二玉(7五角なら5一玉で金が取れる)としたが、そこで3五金、同銀に、5三歩が“決め手”。 以下、3一玉、5二歩成、8四飛、5三角、2二玉、3五角成。
〔 ▲3五角成に、しばらく盤上を見つめておった名人は、「時間がない…。もう駄目だ」といって投了された。平手での初勝利だった。〕(升田将棋選集)
「5筋を突きあう相掛かり」は、戦後、流行らなくなった。4筋を突いて5六銀の腰掛銀型や、「棒銀」が流行りはじめたからで、これは別に、「5筋を突く相掛かり」が分のわるい戦法となったからではない。またそれが流行ることが未来にあるかもしれない。
[第3局]
第1局、第2局は1946年9月に、間を開かずに実施された。ところが第3局が実施されたのは3か月後の12月。
升田幸三が2連勝したので、将棋大成会(今の日本将棋連盟)の幹部たちから「待った」がかかった。その番勝負、中止せよ、というのである。10年近く名人位を守ってきた木村義雄が七段の升田にこのまま3連敗したらどうする、名人の権威が~、というわけだ。
予定では、「半香」という手合いで指し、仮にどちらかが2連勝すれば手合いを変える、という事前の決まり事で始まったこの五番勝負であった。木村名人が2連勝なら「香」という手合いになるし、升田が2連勝なら「平手」となる。実際は升田2連勝だったので、「平手」になるはずだが、このケースをもともと想定していなかったらしい。「おれが連敗するわけがない」と、あの無敵の木村義雄名人が言っているわけだし…ということで。プロ棋士の駒落ち戦が廃止される前後のこの時期まで、将棋指しにとっては、「手合い」と段位いうものが、いちいちこのようにもめるほどに重要な事項だったのである。
木村名人も升田も成行きを見守って静観していたが、五番勝負が途中で終わるのもみっともないことである。やがて木村名人が口を開いた。
「約束通りあとを指しましょう。半香で二番負けたのだから、次からの手合いは平手でよろしい」
木村義雄のこうしたところを、升田幸三も手離しで称賛する。
〔 「てめえに都合のいいことだけをいっちゃなんねえ」というんで、江戸っ子気質なんですな。〕(名人に香車を引いた男)
47手
戦型は「相掛かり」。当時5筋の歩を突かない(4筋を突く)相掛かりは珍しかったので、これを専売特許のようによく指していた小堀清一の名を冠して「小堀流」とこの当時は呼ばれていた。
後手木村名人の「棒銀」が、戦中・戦前にはめずらしい指し方。5四歩として、中央に銀を構える形で大事な勝負をこれまで“常勝”してきた木村名人だったが、木村も“新しい時代”の風を感じて、それに乗って動いてきているようだ。
〔 いつも羽織ハカマの名人が、国民服を着とるんです。これは名人が名人というカミシモをかなぐり捨て、ハダカの勝負をしようというんじゃないか。小柄な体に生気がみなぎり、なにかピリピリするものを発散させておる。〕(名人に香車を引いた男)
図は、先手の升田幸三が「攻め」を決断して、3筋と1筋の歩を突き捨てた後、2四歩と合わせ、2四同歩、同飛、2三歩、6四飛、6三歩、3四飛と進んだところ。
(この将棋の全棋譜はこちらの記事で→『端攻め時代の曙光1』)
第3局68手
升田が攻めて開戦し、「中盤」の勝負どころになった。先手の升田幸三が工夫を凝らして攻めているが、後手の木村義雄名人の対応が的確で、先手の攻め筋が細くなってきている。
図で1五歩なら、後手は3二玉と指し、1四歩、同銀となると、先手は攻めあぐんでいる。
2五桂と升田は指した。同桂と取らせて、2二角成、同銀、3二金、5一玉、2二金、6一玉、3一飛成、5一香と進む。強引な攻めだが、升田は「これでやれる」と思い、後手木村も「無理攻めだ、自分が良い」と思っている。実際は升田の攻めが細く、しかし、これしかなかった。
すでに木村名人の術中にハマッている――木村がこのまま勝てば、そういう描き方になっていただろう。
そこで升田は、4四歩と突いた。これで攻めは切れない、やれる、と。
木村は3七桂成。升田、5六銀。
そこで打った2五角が木村義雄の“失着”だった。
第3局82手
〔かまっちゃおれんと名人は△3七桂成だが、▲5六銀に△2五角が失着。私の俗手▲3四銀を見て顔色が変わった。悪くても▲4四歩を同歩と取り、私の3二金から4三歩にはじっと耐えるよりなかったのである。△5八角成と切って、△4四歩と手が戻るようでは調子がおかしかろう。〕 升田幸三は『升田将棋選集』の解説でこう言っている。
どうやら名人は2五角に対しての升田の次の手3四銀が見えていなかった。この手では升田解説の通り、4四同歩がよかった。解説で升田幸三はそれで先手良しというふうに言っているが、4四同歩と取れば、どうやらその局面は後手の木村名人ぺースの将棋になる。
4四同歩には、先手は「4三歩」と「3二金」が指したい手だが、この2手を両方指さないと攻めにならない。だから、たとえば4三歩には、そこで後手2五角と打って――(次の図=参考図B1)
参考図B1
このタイミングでの2五角なら、次の後手の4八成桂が厳しく、先手の3二金から4二歩成の攻めは一歩遅い。2五角に5八玉としても、6四桂で、先手が悪そうだ。
図で2六銀には3六角だし、どうもここで先手に良い手がないのである。図で最善のがんばりは、3五竜だろう。以下、2四歩、同竜、3六角が予想されるが、後手ペースの将棋である。
実戦は、木村名人の(3四銀の)見落としがあって、「後手有利」だった形勢の針が「互角」ちかくに戻されたという将棋。
升田幸三の攻めの迫力が、木村義雄を間違わせたのかもしれない。
とにかく、ギリギリの勝負将棋となって、終盤突入である。
木村は5八角成と切って、攻め合いに。
第3局94手
進んで、こうなった。
〔 ▲4一歩成で勝ちが見えたと思ったが、△4八馬にひょいと▲6八玉とやったのがひどい落手だった。△5八金を見落としていた。△6七玉なら勝ちである。〕(升田将棋撰集)
升田幸三に“ポカ”が出た。これは負けてもしかたないような単純なミスである。
6八玉としたがそれが失着で、正着は6七玉だという。
この将棋、持ち時間は各9時間。最終的に升田は1時間を残しているので、時間は十分にあったはず。
6七玉以下はどうなるのだろうか。それを研究してみた。(ほんとうに先手が勝つのだろうか)
6七玉、4七成桂、5一と、同金、7七玉(次の図)
参考図B2
はたしてこれで「先手良し」なのだろうか。
この7七玉が好手である。5七成桂なら、5二歩という手が生じて一気に先手優勢がはっきりする。
だからここは、5九馬、6八香、そこで7五歩でどうなるか。
以下、7九銀、7六歩、8八玉、8六歩、4三角、5二金打、同角成、同玉、8六歩、8七歩、9八玉(次の図)
参考図B3
こうなると先手が良いようだ。次に7四歩がある。
我々のソフトを使った研究でも、一応、升田幸三のいう通り、確かに先手良しとなった。(他の変化もあるので先手勝ちとまで断定することはできないけれど)
第3局95手
実戦は6八玉とした。升田の“ポカ”。
以下、5八金(この単純な手をうっかりしたという)、7七玉、5九馬に、6八角(角で「合い」をしなければならなくなった!)
同金、同金、4九角。
〔一分で△4九角。こう打たれてはたしかに負けなんだが、対局中はなぜか負ける気がしなかった。もし弱気になっていたら負けていたろう。〕(升田将棋撰集)
升田、7九銀。木村、8八歩(次の図)
第3局手104手
〔残り五分――名人△8八歩。ここで初めて私は香を取って、▲8六香。「あっ」と言った名人。△8八歩はポカのお返しだったのである。〕(升田将棋撰集)
なんというミス!
5一と、同金と、升田は香車を取って、8六香(次の図)
第3局107手
図以下、8九歩成、8二香成、同銀、3二飛まで、111手で木村義雄名人が投了。
升田幸三七段の勝ちとなった。
かくして、「木村・升田五番勝負」は、升田幸三の3連勝で幕を閉じた。
参考図B4
ところで、104手目の8八歩(木村のポカ)で、代えて7五歩なら、この将棋はこの後、どのようになっていたのだろうか。
最後にその研究結果を示しておく。
升田幸三は「4九角。こう打たれてはたしかに負けなんだが―」と言っているが…
7五歩に、6九金打(7八金打には7六桂がある)、同馬、同金、7六歩、8八玉、7七歩成、同桂(同玉は7六金があって先手負け)、7六歩、4三角、5二金打、8三香(次の図)
参考図B5
7七歩成、同玉、7六歩、8八玉、7二飛、7八歩、6七角成、3二金、6六馬、9八玉(次の図)
参考図B6
これは先手良し。9五歩なら、4二金で、先手の攻めの方が早い。そして後手の受けも難しい。
ということは、先手がそれでも勝っていたのか?、ということにもなるが――
ところが、この手順を途中(参考図B5=先手8三香)まで戻って、7七歩成、同玉、7六歩、8八玉の後に、8三飛と香車を素直に取る手が正着だった。(この手順はソフト「激指」も警戒して最後に考える順のようだ)
以下、先手は5二角成、同玉、4三銀成、6一玉、5一竜、7二玉(次の図)となる。
参考図B7
ここから7一金、8二玉、8一金、9三玉と追っても、どうやら先手が勝てない。先手玉に“詰めろ”がかかっており(7七歩成、同玉、6七馬、同玉、7五桂以下)、したがって図で5三成銀もない。5二竜も6二銀で、先手は受けにまわらなければならない。5二竜、6二銀、7四金が7五桂を防いで一応攻防の手だが、7七歩成、同玉、6七角成、同玉、8七飛成から、7七歩合に5五桂からの詰め手順もあって、やはり先手負けだ。
ということで、104手目(8八歩に代えて)7五歩は、我々の研究でも、やはり升田解説にあるように「後手良し」という結論に辿り着いた。(調べつくしたわけではないので、とりあえずの結論であるが、8三香が利かないのであれば先手が勝つのは難しそうだ)
それにしても、やはり将棋は「ミスした方が負けるゲーム」なのだと思う。
この木村名人の“ポカ”。これが勝負を決めた。
1943年の「升田-木村戦」の時は、不利な木村名人が、逆転するような仕掛けをつくり、その網に升田が入っていき、それを仕留めて逆転したような将棋だった。升田幸三が心理的に焦ってしまったために、勝ちを逃してしまった。升田は「2一飛のポカで負けた」ということにしているが、実際はそうではなく、木村将棋の持つ終盤の逆転術に力負けしたのである。
この「五番勝負」では、逆に、木村義雄名人の“ポカ”が目立つ結果となった。
これは升田の攻めの迫力に、木村名人が気圧されたのかもしれない。そういう印象の、木村名人の“ポカ”だった。戦場を体験した升田幸三には、将棋の技術にプラスして、何か迫力が身についたのかもしれない。
同じ逆転するにしても、迫力で押す升田と、泰然自若として余裕を見せて相手を転ばせる木村、逆転の技も人それぞれである。逆転するためには、相手にミスをしてもらわなければならない。そうなると、それは将棋の技術だけではなく、「何か」がさらに必要なのである。
あらためて、この図を見て、思う。
プロ棋士の将棋で、これほどに、さわやかな“ポカ”も、めったにない気がする。わかりやすくてよい。
我々素人にとっては、“ポカ”こそ、将棋の華である。
青年升田幸三の、木村義雄名人との対決の物語はこれでおしまい。
続いて、将棋界は「木村・塚田・升田・大山」の四強時代となる。
木村・升田に関しては、全日本選手権戦(1949年、竜王戦のルーツとなる棋戦)、名人戦(1951年)、王将戦(1952年)での番勝負の闘いがあるが、それはまた別の物語。
升田幸三は1946年度の順位戦(B級)を12勝2敗の成績をおさめ、翌年度はA級八段になった。
最後に余談を。升田幸三は碁を打つのが好きだったが、それにまつわる1946年のエピソード。
〔 定跡通と呼ばれた平野さん(平野信助のこと)は、碁も強かった。ある時、松浦卓造さんが「七子でどうですか」と手合わせを申し込んだ。「下手ごなし」は自信があったとみえ、即座に「目碁で打とう」と話が決まった。つまり賭け碁である。と言ってもお金ではない。平野さんが負けたらリンゴ。当時は食料難の時代だからめったに手に入らないものだ。平野さんは青森に住んでいた。
徹夜で打って松浦さんは四子まで追い上げ、抱え切れないほどのリンゴを貰った。私もそのおすそわけをいただいたものだ。ちなみに当時私は、平野さんに定先だった。〕(升田将棋撰集)
平野信助は丸田祐三の師匠。1946年度を持って現役を引退した。(→『平野流(真部流)』)
また松浦卓造は広島出身の棋士でこのエピソードの年はまだ31歳。升田幸三も広島出身である。
升田幸三の弟子に桐谷広人(最近はキャラがユニークということでTVに出て顔が知られるようになった引退棋士)がいて、この人も広島出身だが、松浦卓造の紹介で升田の弟子になったらしい。「この子は口が達者だ。升田幸三に合うかもしれない」と思って、松浦が、升田に縁を結んだのではと想像する。