はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

木下尚江

2008年03月30日 | はなし
 今月初め、映画『赤貧洗うがごとき』を観たあと、新宿中村屋に寄ってみた。店頭ではいちご大福を販売していた。その地下は喫茶店になっており、そこで僕はコーヒーとミックスサンドを注文した。ここには初めて入るが、人が多くて、落ち着いて長く居たくなるような感じではないな、と思った。そして、この土地で、木下尚江や相馬愛蔵が田中正造のことを話したりしたのだなあ、と。100年前の昔だが。


 臼井吉見著『安曇野』は、明治女学校を出た良(相馬黒光)が、安曇野の相馬愛蔵のもとに嫁ぐところからはじまっている。やがて新宿中村屋を創業するこの夫婦がこの小説の主役だが、それに関わる多くの主役級の人物が登場する。インド革命家ボースもその一人だが、ボースが登場するのは第3部である。この小説は明治時代から昭和の大戦後までを描いて全部で5部まであるが、第1、2部では明治時代になっている。そこで主役の一人として登場するのが、萩原守衛(芸術家)と木下尚江(新聞記者)である。この二人、相馬愛蔵の友人であり、安曇野の出身なのである。(厳密には木下尚江は安曇野の隣の松本の出身)

 木下尚江(きのしたなおえ)などという人物を僕はそれまで聞いたこともなかった。この小説によって昨年、知ったのである。「尚江」というから、いいかげんにながして読んでいた僕ははじめは「女か?」とおもったが、その発言から、すぐに男だとわかった。木下尚江は、キリスト教信者であり、そして、幸徳秋水、片山潜らとともに、社会民主党の結成をする(1901年)。(後に尚江は社会主義とは距離を置くようになるのだが。)
 この木下尚江は、やがて田中正造と知り合い、親交を深めていく。 

 『安曇野』は、正造と尚江の出会いをこう書いている。


 「お待たせしました」
 声をかけると、眠りから醒めたかのように、血の気の薄い、白けた顔をあげて、腫れぼったい目をむけた。
 尚江とわかると、額をテーブルにすりつけるようにして、
 「田中正造でございます」
 これが初対面の挨拶だった。もつれる手つきで風呂敷袋をといて、新聞の切抜帳をとり出し、ひとりごとのようにつぶやいた。
 「このごろは、新聞を見るひまもない始末でがして__」
 切抜帳は、尚江が渡良瀬川の沿岸や足尾の山を歩いてえた調査と所見を連載したものだった。


 「~でがす」というのが、栃木あたりの方言のようだ。
 この二人の出会いは1900年(明治33年)である。この時、正造60歳、尚江30歳。
 木下尚江の勤める毎日新聞社(いまの毎日新聞ではない)の社長島田三郎(代議士でもあった)の命を受けて、尚江は足尾銅山の鉱毒を調べ、それを新聞に連載した。現地を歩いて、そこで生活する人々の話を聞き、それを書いた。そのことを感謝して田中正造は尚江をたずねてきて礼を言った。「現地に来て見てほしい。そうすればそのひどさがすぐにわかる」と、国会で正造がどんなにそう訴えても、国は動かなかった。20年以上も続いている被害は渡良瀬川にとどまらなかった。渡良瀬川の鉱毒は利根川に注ぎ込み、どんどん拡大しつつあった。そんなときの、尚江の新聞記事だったのである。

 木下尚江のその時の、田中正造についての印象は「国会で演説するときの代議士田中正造とは別人のようだ」というものだった。その姿は、国会で演説し、激しくほえる田中正造ではなく、ただの、弱々しい老人のようだった。
 実際、政治家の中で孤立していく正造は、ボロボロであった。やがて正造は、党(憲政党)を抜け、代議士をやめ、しかしそこから「一人の老人」としてたたかいを続けていく。
 その様子をずっと見届けたのが、木下尚江であった。尚江は、正造のファンであった。その後ゆっくりと、聖者の風貌をおびていく正造を、尚江はふかい尊敬をもって見つめた。正造の死に際しても、駆けつけ、その傍らにいた。その場面も、『安曇野』には描かれている。

 尚江は、のちに、『田中正造の生涯』を編纂した。
 この本は、正造の書簡や日記の主なものが集められたもので、いま僕の傍らに図書館から借りたその本があるが、たとえば、次のような正造の記述がある。


 銭も無いくせに、又年よりのくせに、この寒いのに奔走すると誹る。
 しかれども、否な、予は至る所の美術善事を見て歓喜に堪えざるなり。それ美は醜の反対なり、醜を見ば、美必ずその裏にあり。


 「歓喜に堪えない」と正造は言っている。うれしくてたまらない、と。
 これは1911年(明治44年)の正月の日記だが、寒中を奔走しながらも幸福感に包まれているそんな境地にある、ということがわかる。
コメント (2)
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