はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

あれが生き神様というものだ

2008年03月28日 | はなし
 きのう、シチュウ用の牛肉が安かったので買った。玉葱と芋としらたきとで醤油で煮てみた。食ってみた。旨いが、肉がカタい。安い肉だからなのか、それともシチュウ用の肉というのはそういうもので、何時間も煮込むのがフツウなのか。


 明治時代、足尾銅山の鉱毒に何年ものあいだ悩まされていた人々がいた。それはもうひどいもので、かれらは何年もがまんしてきたが、おとなしいかれらの代わりに国会で何度も何度もしつこく怒って訴えたのが田中正造である。が、それでも国は動かない。やがて田中は「国はもう亡びた」と叫び、ノイローゼとなってゆく。

 島田宗三さんは、谷中村に生まれた。ずっと後になって島田宗三さんが書いた『田中正造翁余禄』の中に、島田早苗という人が2ページの短文を寄せていてその題名は「田中正造翁と父島田宗三」とある。それによると、そのころ鉱毒被害で米も実らず北海道へ移住するような話が出ていたが、早苗さんの父宗三さんは9歳のとき、祖父(宗三の父)がこう話していたのを聞いたという。
 「北海道へ移住しなくても、田中さんがあれほど骨を折ってくれているのだから大丈夫だ。あれがほんとうの生き神様というのだ」
 宗三さんはまだその「生き神様」に会ったことはなかったのだが。
 
 やがて宗三さんの祖父も父も死んでしまう。
 谷中村に大洪水がおこったときに、家族を避難させたあとに二人は、うっかり鉱毒を含んだ水を使って飯を炊いてしまい、それで身体が弱っていき、療養に努めたが6年後に息絶えた。1902年のことである。
 『余禄』には次のように記されている。

 〔それから数日後の三月五日、父は四十六歳で死んだ。前年五月、祖父が六十四歳でおなじ胃病で死んでから僅かに十ヵ月、思えば父も祖父も鉱毒のために死んだのである。〕

 このとき、島田宗三さんは13歳。
 宗三さんが田中翁に出会うのはその1年後である。
 田中正造はすでに「政治」に絶望し、政治家ではなくなっていた。彼の精神はどん底にあったが、それでも被害者である住民のそばにいた。彼は、政治家ではなく、ただの「翁」になっていった。
 川には、まだ、鉱毒が流れ続けている。ただの翁になっても、正造は、まだ、たたかいをやめるわけにはいかなかった。だが、なにと、どうやって、たたかえば良いのか…。正造は、迷いの中にあった。



 そんなことを僕は先月、本で読んでいたときに、2年前に作られた田中正造についてのドキュメンタリー映画があると知った。新宿でそれが観られるというので、今月、出かけてみた。映画のタイトルは『赤貧洗うがごとき』。
 この映画には、島田早苗さんも登場するのだが…
 (あっ!)
 「早苗」さんというから、島田宗三の娘さんかと思っていたら、オッサンだった。(息子だったのか…。)

 映画のあと、正造の絵が良く描けているので、ポスター(¥300)を買った。

 数日後、米屋に米を買いに行った。ずっと「北海道きらら」を食べていたのだが、この頃その米が入荷しなくなったので、別の米屋で、なんとなく「これにしてみようか」と、聞き慣れない銘柄の米をためしに買うことにした。新しい種類のようだ。「コシヒカリよりも粘りがある」と書いてある。これをくださいと店主に言うと、その店主は何度も「これはここでしか売っていない米ですよ」と言う。それで僕は「へえ。どこの米ですか?」と聞いた。店主は「えーっと」と直ぐには答えられなかったが、何か紙を見て、「佐野ですね」と言った。
 (ああ、佐野! …佐野か!)
 佐野市は、栃木県にある。なぜそれを僕が知っていたかというと…

 田中正造は栃木県小中村に生まれた。その土地は、現在は、佐野市である。



 硬い牛肉の入った煮物と、佐野でつくられた米を食ったあと、このブログを書いている。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする