添付のお写真は恩師「長尾弘」の書「明来闇去」です。
この書は日展書道の部で最優秀賞を授与されたものです。
~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~
講演集 一
「経文は生死に関係なく分からない」
亡くなられた方の法事というのをよくいたしますね。
皆さんも三回忌、七回忌、十三回忌をつとめられるでしょう。
あの法事の姿をよく観察いたしますと、お仏壇があって、
その前にお坊様が坐られ、後ろに親戚縁者が坐ります。
そのお坊さんを仲介して亡くなられた方の供養をするわけですが、
後ろにおられる親戚縁者の方達の心の中を観察いたしますと、
皆共通して同じ心を持っておられますね。
「何や訳わからんけど早くお経が終わらないかなあ、
しんどいなあ、足が痛くてたまらない」という思いです。
「ああ有難いなあ、三部経は何と有難いなあ、
私はこのお経の教えのように生きよう」と思っておられる方は
一人もありません。
皆さんはいかがでしょうか。
法事で三部経を聞いて有難いと思いますか、思えないでしょう。
なぜ思えないと言うと、
それはお経の意味が何を言っているのか分からないからです。
分からないから余計に退屈で、
足が痺れて早く終わらないかなと足をさすってやるのです。
そして休憩の時間になるとやれやれとお茶をいただくのですが、
これから又、お坊さんのお説法のあと読経が始まるとなると、
「やれ、おそろしよ」ということになります。
さて次に今度は死んだらどうなるかと言いますと、
お坊さんを境として生きている者は後ろへ、
死んだ者は今度はお坊さんの前に坐ります。
そしてお経を聞いてどう思っているかと言いますと、
お坊さんの後ろにいれば、まだ足もさすれたけど、
ここでは足もさすれず、足を伸ばしたり、くずしたりもできず、
「かなわんなあ」と思っています。
それが亡くなった方の心です。
「もういい加減に終わってくれないかなあ」と思うだけで、
お経をあげてもらっても何も有難いことはありません。
それはお経の意味が分からないからですね。
分からないものは生きて聞いても死んで聞いても分かりません。
法事のお経を、お坊様を境として生きて後ろで聞くか、
死んで前で聞くかの違いですから、
同じ思いをしているということです。