原作読書はアラゴルンたちはウルク=ハイの死体が焼かれた場所でメリピピが死んだと思って嘆く場面まで来ました。そしてここで場面変わってウルク=ハイに連れて行かれるメリピピの場面に入ったところまで進んでます。
映画では原作と場面転換の順番が違い、映画ではほぼ時系列どおりの順番になっています。なので、例えばRotKの黒門前でサウロンの口にミスリルの鎖帷子を見せられる場面などで、原作では読者もフロドの生死は判っていなかったけれど、映画では皆生きていることを知っている、というDVDの特典映像でのPJの話を聞いて「なるほど」と思ったのですが、そうやって気をつけて読んでいると、このあたりでもそういうところがいくつかありますね。
まずピピンのブローチを拾った時点でアラゴルンたちはまだなぜブローチが落ちているか知りませんね。足跡はピピンのものしかないので、二人とも無事なのかどうかがわからないし。
そして、ウルク=ハイが焼かれた場所についた時にももちろん二人の生死は全くわからないのですが、ここは映画でも珍しく一緒ですね。
映画では、アラゴルンが足跡を追うにつれてメリーとピピンの逃走の場面がカットバックされるという手法になってます。時系列順が基本なのに珍しくこんな手法を取るあたり、さすがに緊張感を持たせたかったのかな、と思いますね。まあ、あんな戦闘のさなかの足跡は原作の馳夫さんには見分けられませんけど・・・(←嫌味(笑))
原作では、こういう場面は必ずと言っていいほど仲間の生死は読者にもわかっていない展開になっていますね。物語を書く上では基本かもしれません。
そうか、だから「二つの塔」でも「王の帰還」でもフロド・サムルートが後半に回されてたんですね、きっと。やっぱりフロドとサムの行く末が最も気になりますから・・・
と話が先に行ってしまいましたが(汗)アラゴルンたちがエオメルに出会った場面に戻ります。
ギムリがエオメルに「そっちから名乗れ」(超訳(汗))と言うの、映画だとギムリが失礼みたいになってますが、本当は奥方のことを悪く言われたから、なんですよねえ。映画ではアラゴルンまでギムリのこと「困った奴だ」みたいな態度で・・・ロリアンでもそうでしたよねえ。なんかムカつく~!
そう言えば、アラゴルン自分のこと「馳夫」と名乗ってるけど、馳夫ってブリー村界隈だけで通用している名前じゃなかったのか・・・? ホビットに呼ばれてこの頃にはすっかり馳夫が気に入ってたんでしょうか・・・(笑)
この後、アラゴルンはエオメルにアンドゥリルを見せて名乗り、エオメルはアラゴルンを信じたりするわけですが、このあたりは映画の方がリアリティがあって好きかも。というか、原作のエオメルそんなに好きじゃないんですよね(汗)なんかあまりに馬鹿正直というか・・・(原作エオメルファンの方ごめんなさい!)クールな映画のエオメルはかなり好きなんですよね。
でも原作のエオメルの、馬鹿正直(重ね重ね失礼(汗))な故のギムリとの微笑ましいやり取りは好きですけどね。
それにしても、「旅の仲間」で仲間たちが旅しているあたりの話が好き、と以前書きましたが、アラゴルンたちが3人で追跡の旅を続けているあたりも結構好きだなあ、と読みながら思いました。3人の会話が好きです。
メリピピが死んでしまったと思って、早速悲観的なギムリが「彼らはやはりエルロンドの言うとおり来なければ良かったんだ」と言うと、楽観的なレゴラスが「でもガンダルフは彼らが来るべきだと言った」と言い、それに対してギムリが「でもガンダルフ自身が旅を続けられなくなったじゃないか」と話すあたりも、レゴラスとギムリらしくていいなあと思いました。
しかしレゴラスは楽観的とか書きましたが、もっと後の方で「それでは我らはあの若いホビットたちとはもう会うことはないのですか」とかとんでもないことを言っていたのを思い出しました(汗)やっぱりホビットはどうでもいいのかレゴラス・・・(汗)
来週早々にはTTT SEE鑑賞の予定なので、タイムリーに読み返しているかな、と思います。映画もこのあたりはまだ好きなんですよね。ギムリの態度とか、だんだんおかしなところは出て来つつありますけど・・・(汗)
TTTも久々なので、どう思うか自分でも楽しみです。
映画では原作と場面転換の順番が違い、映画ではほぼ時系列どおりの順番になっています。なので、例えばRotKの黒門前でサウロンの口にミスリルの鎖帷子を見せられる場面などで、原作では読者もフロドの生死は判っていなかったけれど、映画では皆生きていることを知っている、というDVDの特典映像でのPJの話を聞いて「なるほど」と思ったのですが、そうやって気をつけて読んでいると、このあたりでもそういうところがいくつかありますね。
まずピピンのブローチを拾った時点でアラゴルンたちはまだなぜブローチが落ちているか知りませんね。足跡はピピンのものしかないので、二人とも無事なのかどうかがわからないし。
そして、ウルク=ハイが焼かれた場所についた時にももちろん二人の生死は全くわからないのですが、ここは映画でも珍しく一緒ですね。
映画では、アラゴルンが足跡を追うにつれてメリーとピピンの逃走の場面がカットバックされるという手法になってます。時系列順が基本なのに珍しくこんな手法を取るあたり、さすがに緊張感を持たせたかったのかな、と思いますね。まあ、あんな戦闘のさなかの足跡は原作の馳夫さんには見分けられませんけど・・・(←嫌味(笑))
原作では、こういう場面は必ずと言っていいほど仲間の生死は読者にもわかっていない展開になっていますね。物語を書く上では基本かもしれません。
そうか、だから「二つの塔」でも「王の帰還」でもフロド・サムルートが後半に回されてたんですね、きっと。やっぱりフロドとサムの行く末が最も気になりますから・・・
と話が先に行ってしまいましたが(汗)アラゴルンたちがエオメルに出会った場面に戻ります。
ギムリがエオメルに「そっちから名乗れ」(超訳(汗))と言うの、映画だとギムリが失礼みたいになってますが、本当は奥方のことを悪く言われたから、なんですよねえ。映画ではアラゴルンまでギムリのこと「困った奴だ」みたいな態度で・・・ロリアンでもそうでしたよねえ。なんかムカつく~!
そう言えば、アラゴルン自分のこと「馳夫」と名乗ってるけど、馳夫ってブリー村界隈だけで通用している名前じゃなかったのか・・・? ホビットに呼ばれてこの頃にはすっかり馳夫が気に入ってたんでしょうか・・・(笑)
この後、アラゴルンはエオメルにアンドゥリルを見せて名乗り、エオメルはアラゴルンを信じたりするわけですが、このあたりは映画の方がリアリティがあって好きかも。というか、原作のエオメルそんなに好きじゃないんですよね(汗)なんかあまりに馬鹿正直というか・・・(原作エオメルファンの方ごめんなさい!)クールな映画のエオメルはかなり好きなんですよね。
でも原作のエオメルの、馬鹿正直(重ね重ね失礼(汗))な故のギムリとの微笑ましいやり取りは好きですけどね。
それにしても、「旅の仲間」で仲間たちが旅しているあたりの話が好き、と以前書きましたが、アラゴルンたちが3人で追跡の旅を続けているあたりも結構好きだなあ、と読みながら思いました。3人の会話が好きです。
メリピピが死んでしまったと思って、早速悲観的なギムリが「彼らはやはりエルロンドの言うとおり来なければ良かったんだ」と言うと、楽観的なレゴラスが「でもガンダルフは彼らが来るべきだと言った」と言い、それに対してギムリが「でもガンダルフ自身が旅を続けられなくなったじゃないか」と話すあたりも、レゴラスとギムリらしくていいなあと思いました。
しかしレゴラスは楽観的とか書きましたが、もっと後の方で「それでは我らはあの若いホビットたちとはもう会うことはないのですか」とかとんでもないことを言っていたのを思い出しました(汗)やっぱりホビットはどうでもいいのかレゴラス・・・(汗)
来週早々にはTTT SEE鑑賞の予定なので、タイムリーに読み返しているかな、と思います。映画もこのあたりはまだ好きなんですよね。ギムリの態度とか、だんだんおかしなところは出て来つつありますけど・・・(汗)
TTTも久々なので、どう思うか自分でも楽しみです。
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