ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

ホビット原作は子ども向けか?

2014年05月09日 | 指輪物語&トールキン
このところずっと気になっていていつか書きたいと思っていた話です。
私がPJ映画と相容れないなあ、と思う原点でもあるかもしれない…
原作のネタバレの配慮はもともとしていませんが、ホビットの終盤についての大きなネタバレが出てきますのでご注意を。

よく、「ホビット」は子ども向けの話だ、子どもっぽい、という声を聞きます。それこそPJやフィリッパ・ボウエンさんまでそう言ってますね。
しかし、私が初めてホビットを読んだときの感想は、「これ本当に子ども向け?子どもはこれ読んで面白いの?」ということでした。
わたしが読んだのは思いっきり大人になってからだったというのもあると思います。子どもの時読んでたらどう思ったかなあ。

ホビットを読んだのは、先に指輪物語を読んでからでした。
指輪物語にとても感動したので、ホビットについては前日譚としてさらっと読むつもりでしたが、意外な魅力にハマってしまいました。
まずは、ビルボがわがまま勝手なドワーフたちやガンダルフに振り回される様が面白いなーと。
このあたりのコミカルな場面が「子どもっぽい」と評されるようですが、私はそうは感じませんでした。
わがまま勝手なドワーフたちは、読んでいて「こういう人いるいる」というリアリティがありました。集団になるとこういうわがまま言い出すよね、とか。
このあたり読んでいて、トールキンの人間観察力に感心したりしてました。
コミカルな場面も、子どもっぽいというよりは、イングリシュジョークかなと(イングリッシュジョークあんまり詳しくないから違うかもしれませんが)。すごく皮肉が効いていて。
子どもが読んでも、単純に面白いのかもしれませんが、このあたりの皮肉がわからないと本当の意味では笑えないのでは、なんて思いました。
たとえば好きなのは、トーリンがビルボにスマウグの様子観に行かせようとして演説を始めて、それにイラっとたビルボが「おお、スラインのむすこトーリンオーケンシールドどの、お話ちゅうですが、あなたはこの秘密の入口にまっさきに入るのがわたしの仕事だと考えていることをおっしゃりたいのなら、それほどだらだらと、おひげをはやすほど話をひきのばす必要はありますまい。」と言う場面とか、その後誰か一緒に来るか聞いてみて誰も手を上げないと「ビルボはいっせいに志願してくるとは思っていませんでしたから、ちっともがっかりしませんでした」ってところとか。瀬田訳のことばづかいのおかげもかなりあるのかもしれません。
あとガンダルフの大人げなさぶりも大好きなのですが、いちいち挙げているときりがないのでやめときますけど(笑)

もう一つ面白いと思ったのは、ありがちな冒険譚のパターンから外れているところですね。
小さくて力もなくて、すぐに「お腹が空いた」「家に帰りたい」と言ってばかりのホビットのおじさんが主人公というところからして普通じゃないですが。
当然ドラゴン退治をするものかと思っていたら、スマウグは予想外の展開に。
そして、一番面白いな、と思ったのは、ドラゴンを倒したらめでたしめでたしで終わりではないということでした。
ドラゴンがいなくなったら残った財宝は?財宝を巡って現実的な展開になるなんて、思ってもみないことで、「そう来たか!」と本当にびっくりしました。
このあたり、実は「農夫ジャイルズの冒険」とも通じるものがありますね。最近版元品切れなのが残念ですが…
農夫ジャイルズも、ハム村の普通の農夫ジャイルズが、結局ほぼ全く戦わずに弁舌だけでドラゴンを言い負かすという話ですが、ここでもトールキンの、よくあるドラゴン退治の物語に対するパロディ精神があふれていると思います。個人的に農夫ジャイルズも大好きなんですよね。
思うに、トールキンは古伝説や伝承物語に惹かれる一方、もし現代人が物語の中に入ったら、という視点でも考えずにはいられなかったのではないかと。それを皮肉とイングリッシュジョークをちりばめた、ユーモアあふれる物語に仕立てたのだと思っています。
シルマリルの物語やアカルラベースのような壮大な物語を作る一方で、こういうユーモアと皮肉にあふれた現代的な物語を作ったのもまた、トールキンの創作のもう一つの方向性だと思います。
指輪物語にもユーモアはありますよね。序盤のホビットたちの場面はもちろんですが、終盤の療病院の場面のヨーレスや本草家とアラゴルン、ガンダルフのやりとりとか、私大好きなんですよね(笑)

ただ、ホビットは、パロディ精神にあふれたユーモアだけではとどまらない物語です。(そこが農夫ジャイルズとはちょっと違います)
この物語の最大の山場は、五軍の戦いではなく、ビルボの決断にあると思います。実際ビルボは五軍の戦いの間はほぼ気を失ってますしね(汗)
宝を自分のものだと主張するトーリンと、スマウグに損害を受けた人々を救うために宝を差し出せという真っ当な主張をするバルドたち。
ビルボは、バルドの主張を正しいものだと思い、トーリンからすれば裏切りとしか思えない行為を勇気を持ってします。戦いを避け、平和を実現するために。
実は、このビルボの行為について、「裏切りとしか思えなくて理解できない」というようなことを言ってる方が複数いらっしゃるのを知っています。私はビルボの行為に感動したので、逆にその感想にびっくりしましたが…
このあたり、映画だとトーリンが自ら「宝は分かち合う」と言ってますから、よりわかりやすくなっているかと思います。DoSラストのビルボの「僕たちは何をしたんだ」という台詞も、ビルボの行為の理由をよくわかりやすくしているのではないかと。…だといいなあ(汗)
いやでも、映画だとビルボがアーケン石に魅了されている様子がなかったので(これからあるかもしれないけど)、もしこのままだと、あの件でのビルボのすごさが感じられなくなってしまうかもしれないなあ…
まあともかくその点を考えても、3作目のタイトルが「五軍の戦い」なのはやっぱりホビット派としてはひっかかるなあ。物語の焦点は本来五軍の戦いではなく、ビルボの決断にあると思うんですよね。少なくとも私にはそう読めたので。

一番感動するのはやはりトーリンとビルボの別れの場面ですが、前にもちょっと書いてるし、今回の内容とはちょっと外れるので、ここでは省略します。

という訳で、私にはホビットが単純に子ども向けの物語とは思えないのです。
トールキン自身、ファンタジーは子どものためだけのものではなく、大人の鑑賞にも耐えるものだというようなことを言っていますから、たとえ子どもに話すために作ったとしても、本当に単なる子ども向けだけとして作ったとは思えません。子どもも楽しめるように作りながらも、大人の鑑賞にも耐えるものとして作ったのではないかと思います。

そして、このホビットで描かれているものは、指輪物語にも受け継がれていると思います。よりシリアスな形にはなっていますが。
まず、力のない小さなホビットが主人公であり、物語の使命を担っていること。
サウロンが結局姿を現さず、バラド=ドゥアもその全貌を見せないまま崩壊してしまうところなども、スマウグの意外な結末と通じると思います。
ホビットに出て来たユーモアも、結構出て来てますよね。サムやメリー、ピピンの出て来る場面もそうですし、ガンダルフも結構面白いし。
個人的には、療病院のヨーレスや本草家とアラゴルン、ガンダルフのやりとりが好きなんですよね~。こんな場合に何やってんの、という感じですが(笑)

そんなこんなで、私にはホビットは単なる子ども向けの話とは思えないし、指輪物語にも十分にその精神は受け継がれていると思うのですが、なかなか世間ではそう思われていないようですね。何よりPJたちがそう思ってるんですからね…
余談ですが、ホビットの中でのビルボの立ち位置について、「ビルボは傍観者で記録者だっただけだから、本来は主人公ではない」というようなことを言ってる方もいて、うーん、と…
ビルボのあの決断は、ビルボが主人公であるには足りないということなのでしょうか…
何よりも、指輪を棄却することができたのは、ビルボがゴラムを救ったことから始まっているのではないですかね。それでも主人公であるには足りないのでしょうか…(まあこのエピソードは指輪物語発表以降に改訂でくわえられた設定だから、という意見もあるでしょうが…)
このあたりも、あの物語をどう解釈するか、ということに尽きるのかもしれません。
でも、いやだから、かな、PJはどうやら私とは違う方向の解釈なのだな、ということが実感されるにつけ、PJ映画に対して距離を置く気持ちになってしまうのは仕方ないことかな、と思います…
後は、どう気持ちに決着をつけて映画と向き合うか、ですね…(既に自分の好きな方向性とは違うだろうな、と思って身構えている(汗))
コメント
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