池さんを作ってもう13年になる。
繰り返される毎日の小さな営みの中に、喜びや悲しみや葛藤など、計り知れないドラマが生まれ続けている。
一つ一つのドラマに大きな思い出が存在する。
その経緯やその時の感情までもが鮮やかに心によみがえる。
そのどれもが、今の私自身にとって、大切でかけがえのないものばかり。
日々の暮らしの中で、ともすれば忘れそうになったりどこかに置き忘れてしまいそうになる出来事も多いけれど、ここで暮らした中で生まれたエピソードは、どんな小さなことも心の奥深くにちゃんと刻まれたものばかり。
時折、何かの拍子に心の中の深い所にしまった感情や思い出が、ふと心の表面付近に現れ、心を乱されたり、反対に心を落ち着けたりしてくれる。
なぜか、見送った人たちのことを思い出してしまう。
みよちゃんの右手、じいちゃんの身体、ヒイちゃんの寝姿、ゆみこさんの傷、フミちゃんのふくふくとした手、まあちゃんの甲高い声、リンちゃんの寝言、キミ子さんの叫び声、タツエさんの指、さよさんの鯛、としこさんの赤い服、ヨッシーの笑い声・・・
懐かしくて暖かくて、どうしようもない。
命を使い切って迎える死は、どれも感謝と平穏をもたらしてくれた。
みちおさんを探したこと、湯波のじいちゃんがベットに繋がれていたこと、伊藤さんが空虚な目をしていたこと・・・
悲しくて切ない事実。
いろんな人を見送り、暖かい死があることを感じた。
同時に人の力ではどうにもならない事実があることも知った。
老いた人たちと生きるということは、そういう全てを含め、「共にいる」ということだと思った。
知り合いの葬儀が行われ、出席する。
13年よりももっとずっと以前からの知り合い。
いつも笑顔で握手を求めてくれた人。
池さんで看取った人たちとは違う別れに、心のどこかにやりきれない思いがこみ上げてくる。
年を重ねた結果、自然に老い、自然に自らを受け入れ、そして死を迎える人とは異なり、予期せずある日突然に訪れる死は、周囲の人たちを困惑させ、大きな喪失感に包まれ、心が痛みを訴える。
急に終えなければならない命は多くの心残りや気がかりを残し、残される人もまた諦める時間もないままに生き続けなければならないだろう。
どうにもならないけれども、これが事実。
どうにもならない事実は、常に目の前に立ちはだかり、心の深い所を抉るように襲い掛かってくる。
頭ではわかっていても、心の中で消化するには時間が必要になる。
日々の営みは暖かくて穏やかな出来事だけでなく、涙をふり絞るような、そんな出来事も抱えつつ、小さなエピソードを綴ってくれる。
生きてゆくということは、そういうことなのかもしれない。
心の揺れを感じつつも、
日々の暮らしを生きてゆきたいと思う夜。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます