へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

久しぶりに、格差について

2007年04月12日 03時55分11秒 | Weblog
いろいろと格差の問題が議論されている。
格差とは、商品の標準品に対する品位の差。また、価格・資格・等級などの差。「賃金・・」とある。
それでは、問題となっている「格差」の標準とはどんな物だろう?。
標準は、時代時代によって変化していくはずである。
時代の潮流に旨く乗った人と、乗り遅れた人の間にも格差が出来る。
時代の潮流に旨く乗れるか乗れないかは、その人の持っている能力によって決まる。
立ち回りのうまい人、先見の明がある人、特別な才能を持った人などは有利になる。
格差を全く無くしてしまったら、どんな社会になるか考えてみた事があるだろうか?。
格差とは、別な言い方をすれば「格の差」「能力の差」とも言える。
それでは、「格の差」「能力の差」とは?。
オリンピックで金メダルを取るのは、トップアスリートでも「至難の業」である。
一般の人では「逆立ち」をしても無理な話。
それでは何故、金メダルを目指すのであろう?。
単に記録の更新や金メダルを取る事だけで、あれだけ頑張れるであろうか?。
一部の国では、金メダルに「国家の威信」を掛けている国もある。
金メダルを取る事によって「国家の英雄」になり、地位、名誉、多額の財産を得る人だっている。
仮の話、金メダルをとっても、何の見返りも無かったらどお言う事になるであろう?。
スポーツの世界は「格差」があるから成り立つので、格差がなっかたらつまらないであろう。
スポーツの世界では「格差」はあまり問題にはならない。
しかし「市民生活」の話になると、「大きな問題」になる。
「スポーツの世界」と「市民生活」と言う世界の、何処に違いがあるのだろう?。
格差を無くしてしまったら、能力のある人は「バカバカしくてヤッテランネーヨ!」」と言う事になりはしないだろうか?。
私に言わせれば、「格差、格差」と言うのは、あたかも「負け犬の遠吠え」の様に思えるのだが・・・。
他人の幸せを羨み、自分自身の不幸を嘆くのは、「精神的にミジメ」になるので、私は嫌いである。
自分に「運」と「能力」が無かったと諦め、たとえ小さくとも、「自分の中の幸せ」を見つけたほうが、「心豊かな生活」がおくれると思うのだが・・・。

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