国会の場で、自民党の主張に反対する「民主党のお偉方」がよく使う言葉に、「・・・・・であり、私はそう思います」と言う言葉があるのだが、「私はそう思います」と言う言葉は、後になって都合が悪くなった時に「少なくともその時には正しいと思った」と言う言い訳が用意されている。
追い詰めれれてゆくと、更に奥の手として「認識の相違」と言う言葉も用意されているはずで、行き着く所「堂々巡り」と言う事になるのではないだろうか?。
「認識の相違」と言うことは、日常生活でもたびたび起きる事ではあるが、問題は「その後の対応」と言う事になるのではないだろうか?。
「相違」している事がわかった時点で、どちらかに統一されれば問題は起きないのだが、「逃げ口上」として使われた場合は厄介な事になってしまう。
「私はそう思います」、思うのは勝手だが、それを他人に押し付けるのは「国の最高機関にいる人間」がするのはどうかと思うのだが?。
私も時々使うのだが、この場合は「アクまでも個人的意見で、実行するかどうかは個人の自由判断による」と言うことだが、国会の場で決まった場合は「全ての国民は、法律によって否応ナシに従わなくてはいけない」と言う事になり、「個人の自由判断」と言うものは認められなくなってしまう。
教育(学力)の問題にしても、個人個人の置かれた立場によって「無数の考え方(認識)」が有り、どの考え方を優先させるかは非常に困難な事で、ましてや、「全てを満足させる案」など存在し無い。
個人個人に能力の違いがある以上、学校教育に全てを任せるのではなく、学校教育で賄えない部分は「各個人で補う」と言う以外ないのではなかろうか?。
一つの参考意見として、私が通った学校の例を挙げてみよう。
まさか?、と思うかもしれないが、中学での授業レベルは「公立高校と同じレベルかそれ以上」と言う状態なので、「予習と復習」を十分しておかないととても付いてゆく事は出来ません。
何しろ、東京の学校にも拘らず「千葉・埼玉・神奈川」からも優秀な生徒が集まって来ているのだから、私が落ちこぼれるのも当然です。
「授業中は常に『辞書・参考書』を机の上に置き、解らない事はすぐに自分で調べろ」と言うことを始めに言われました。
「辞書」とは、国語辞典、漢和辞典、古語辞典、和英辞典、英和辞典、などで、「参考書」は、文字通り「参考書」と言うほか無いのであるが、物理、生物、化学、政治経済、歴史、地理、などの授業で必要と思われるものが対称になります。
更に驚くべき事があります、ナント、「教科書のアンチョコ(教科書の内容を解り易く解説したもので、電話帳の半分位の厚さがありました)」と言うものが、通学路沿いの書店で販売されているのです。
私も欲しかったのですが、「親の無理解」で買う事が出来ず、一部を先輩から譲り受けて勉強しましたが、一度遅れてしまうと、追いつく事は「至難の技」と言わざるを得ず、学校側の取る対策は「家庭教師を頼むように」と言うことしかしせず、付いて行けないものには、「落ちこぼれ」と言う道しかありません。
全てのエリートがそうだとは言いませんが、多くの人はこのような「難関」を突破して初めてエリートになる資格を得るのです。
東大、一橋大、京大、慶大、早大などの卒業生を企業が求めるのは、これだけの「難関を突破する能力(学力)を持っている」と言うことが理由でしょう。
学校で一位、県で一位、関東で一位、全国で一位を比べれば、一目瞭然なように、其処には「歴然とした差(格差)」と言うものが存在し、この格差を乗り越える事は非常に難しいのだが、努力を怠ってしまえば「現状維持」さえ難しくなり、「下位へ転落」と言う事さえ起きてしまう。
私に言わせれば「教育制度に文句を言っている暇があったら自分で勉強しろ!」と言いたい。
「文句を言う人ほど努力しない」と言うのは言い過ぎだろうか?・・・・・。
追い詰めれれてゆくと、更に奥の手として「認識の相違」と言う言葉も用意されているはずで、行き着く所「堂々巡り」と言う事になるのではないだろうか?。
「認識の相違」と言うことは、日常生活でもたびたび起きる事ではあるが、問題は「その後の対応」と言う事になるのではないだろうか?。
「相違」している事がわかった時点で、どちらかに統一されれば問題は起きないのだが、「逃げ口上」として使われた場合は厄介な事になってしまう。
「私はそう思います」、思うのは勝手だが、それを他人に押し付けるのは「国の最高機関にいる人間」がするのはどうかと思うのだが?。
私も時々使うのだが、この場合は「アクまでも個人的意見で、実行するかどうかは個人の自由判断による」と言うことだが、国会の場で決まった場合は「全ての国民は、法律によって否応ナシに従わなくてはいけない」と言う事になり、「個人の自由判断」と言うものは認められなくなってしまう。
教育(学力)の問題にしても、個人個人の置かれた立場によって「無数の考え方(認識)」が有り、どの考え方を優先させるかは非常に困難な事で、ましてや、「全てを満足させる案」など存在し無い。
個人個人に能力の違いがある以上、学校教育に全てを任せるのではなく、学校教育で賄えない部分は「各個人で補う」と言う以外ないのではなかろうか?。
一つの参考意見として、私が通った学校の例を挙げてみよう。
まさか?、と思うかもしれないが、中学での授業レベルは「公立高校と同じレベルかそれ以上」と言う状態なので、「予習と復習」を十分しておかないととても付いてゆく事は出来ません。
何しろ、東京の学校にも拘らず「千葉・埼玉・神奈川」からも優秀な生徒が集まって来ているのだから、私が落ちこぼれるのも当然です。
「授業中は常に『辞書・参考書』を机の上に置き、解らない事はすぐに自分で調べろ」と言うことを始めに言われました。
「辞書」とは、国語辞典、漢和辞典、古語辞典、和英辞典、英和辞典、などで、「参考書」は、文字通り「参考書」と言うほか無いのであるが、物理、生物、化学、政治経済、歴史、地理、などの授業で必要と思われるものが対称になります。
更に驚くべき事があります、ナント、「教科書のアンチョコ(教科書の内容を解り易く解説したもので、電話帳の半分位の厚さがありました)」と言うものが、通学路沿いの書店で販売されているのです。
私も欲しかったのですが、「親の無理解」で買う事が出来ず、一部を先輩から譲り受けて勉強しましたが、一度遅れてしまうと、追いつく事は「至難の技」と言わざるを得ず、学校側の取る対策は「家庭教師を頼むように」と言うことしかしせず、付いて行けないものには、「落ちこぼれ」と言う道しかありません。
全てのエリートがそうだとは言いませんが、多くの人はこのような「難関」を突破して初めてエリートになる資格を得るのです。
東大、一橋大、京大、慶大、早大などの卒業生を企業が求めるのは、これだけの「難関を突破する能力(学力)を持っている」と言うことが理由でしょう。
学校で一位、県で一位、関東で一位、全国で一位を比べれば、一目瞭然なように、其処には「歴然とした差(格差)」と言うものが存在し、この格差を乗り越える事は非常に難しいのだが、努力を怠ってしまえば「現状維持」さえ難しくなり、「下位へ転落」と言う事さえ起きてしまう。
私に言わせれば「教育制度に文句を言っている暇があったら自分で勉強しろ!」と言いたい。
「文句を言う人ほど努力しない」と言うのは言い過ぎだろうか?・・・・・。