へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

無縁社会、その2

2011年02月13日 05時02分03秒 | Weblog
若い世代でも「無縁化」が進んでいるのだが、そのなかで少し気になることがある。

最近の若い世代では「就職できない」「結婚できない」・・・・など、様々な問題で社会と縁が薄くなっている人たちが「自分は誰からも必要とされないのでは?」と考えるようになる事が多いらしい、が・・・・。

これは「生きている意味」にもつながる問題はないだろうか。

私が子供の頃は「生きている意味」にしても「働く意味」にしても、殆どの人は気にかけることはなかったのではないだろうか。

私だって、「生きている意味」も「働く意味」も考えたことなどなく、「生きている意味」は「死ねないから生きている」と言った程度にしか考えておらず、「働く意味」だって「働いてお金を貰わないと生きてゆけないから働く」としか考えた事などないのである、が・・・・。

「情報化社会」になるにつれ、「生きる意味」だの「働く意味」だのと言った余計な情報が満ち溢れ、私から見ると「情報に振り回された哀れな世代」に見えてくる。

この結果「自分がやりたい仕事」だの「充実した仕事」「やりがいの有る仕事」・・・・と、昔では考えられないようにことが求められるようになり、その先に待っている「現実とのギャップ」で悩む事になるのである。

現実の話「自分がやりたい仕事」が出来ている人がどれほどいるのだろうか。

「充実した仕事」「やりがいの有る仕事」にしても同じ事である。

「理想と現実」と言う言葉があるように、現実の社会では自分が思うようには行かないのが当たり前のことで、そんな事で悩んでいてはどうしようもないのである。

私が今こうしていられるのも、「仕事の選り好みなど出来ない立場」に置かれ、その結果「多くの人がやりたがらないような仕事」でもやってきた結果なのである。

26になった夏などは「仕事(熱処理)場の温度が53度」などと言う過酷な状態でも仕事をしたことがあり、その一方で、「寒さで指先の感覚がなくなる」言うような状態でも仕方なくやったものである。

こんな事を書くと、私が特別ひどい仕事をして来たように感じるかもしれないが、実際はもっとひどい状態の人もいるのである。

情報化社会などといっても、私がやってきたような事は片隅に追いやられ、華やかな部分ばかりが強調された「偏見に満ちた情報ばかりの世界」なのである。

「情報はネットで得られるから」と言う理由で新聞離れが進んでいるが、ネットで得られる情報は「日の当たる部分」ばかりで、いつの間にか「日の当たらない影の部分」は「存在しないもの」のようになってしまったのである。

私が敢えて「へそ曲がりおじさん」と言うのは、このように、一般的には「存在しない」と思われている影の部分を見ているからで、ある意味「皮肉をこめている」のである。

誰にでも出来る事ではないだろうが、私のような生き方をしていると「悩む事も少ない」のではないだろうか。

家族との縁も殆どなくなってしまい、正に「孤独死予備軍」になっているのだが、私とすれば「これも運命(宿命?)」だと考えるようにしている。

後は「成るようにしかならない」と言った開き直りで対処するしかないだろう。

余り悩んでいると「うつ病」になりかねないので・・・・。
コメント
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