24日の朝日新聞夕刊2面の囲み記事のタイトルで、車に対する厳しい規制を実施しようとしている欧州の考え方を紹介しているのだが、欧州の考え方として「政治が力ずくでも業界の誘導をしていく」と言う姿勢に対して、「日本の政権にも、ぜひ見習ってほしい」と言う言葉で結ばれていたのだが、私から見れば「論理的には正しいが、根源的な部分を見ていないので、とても無理な話」と言いたくなってしまう。
「根源的な部分」とは、「国民の物の考え方が日本とは全く違う」と言うことであり、同じ尺度で比較すること事体がナンセンスではないだろうか?。
「より良い社会保障にはそれなりの高い負担は仕方ない」と考える欧州に対して、「より良い社会保障は求めるが、負担が増えるのは嫌がる」と言うのでは、「比べる方が無理」と言えるだろう。
また、「国(地球)の未来のためには、ある程度の民意の犠牲は止むを得ない」と考える欧州の国民性があるからこそ出来ることで、民意ばかりが強く出る国民性で「民意に振り回されてばかりいる日本の政治」ではとても出来る相談ではないだろうし、政治家?が企業献金に頼り影響されているようでは、「政治が力ずくでも業界の誘導をしていく」など出来る筈が無いではないか。
ここで少し話が横道にずれてしまうのだが、現実の話として「このような記事(情報)を、ネットの世界で探すことが出来るのだろうか?。
「ニュース(情報)はネットで見るから新聞(テレビのニュースも)などいらない」と言う話を聞くことが増えているのだが、前にも書いたように、ネットで見られるニュースは極めて限られたものでしかなく、更には「内容は興味本位の偏ったもの」が中心になり、私が書くブログの材料には殆ど役に立たない。
私にとって、新聞は「主食」であり、NHKの放送は「肉や野菜などの副菜」と言うことになり、民放やネットは「お菓子や果物などのデザート」と言うことになるだろう。
今や、「主食はおろか、副菜もろくに食べずにデザートばかりを食べている」と言う偏った生活(ニュースばかりでなく、現実の食生活でも)をしていれば、いずれは「生活習慣病」に犯されるのは目に見えている。
過去に何度も書いているのだが、「情報化社会」と持て囃されていたものがが「情報過社会」になり、今や「情報・禍・社会」になろうとしている。
「便利さの裏に潜む危うさ」と言うもので、かつて「テレビは見る人を白痴化させる」と言われていたが、ネットはそれを更に加速させるのではないだろうか?。
「苦あれば楽あり」と言う言葉が存在するように、「楽あれば苦あり」と言う言葉も存在することを忘れてはいないだろうか?。
「根源的な部分」とは、「国民の物の考え方が日本とは全く違う」と言うことであり、同じ尺度で比較すること事体がナンセンスではないだろうか?。
「より良い社会保障にはそれなりの高い負担は仕方ない」と考える欧州に対して、「より良い社会保障は求めるが、負担が増えるのは嫌がる」と言うのでは、「比べる方が無理」と言えるだろう。
また、「国(地球)の未来のためには、ある程度の民意の犠牲は止むを得ない」と考える欧州の国民性があるからこそ出来ることで、民意ばかりが強く出る国民性で「民意に振り回されてばかりいる日本の政治」ではとても出来る相談ではないだろうし、政治家?が企業献金に頼り影響されているようでは、「政治が力ずくでも業界の誘導をしていく」など出来る筈が無いではないか。
ここで少し話が横道にずれてしまうのだが、現実の話として「このような記事(情報)を、ネットの世界で探すことが出来るのだろうか?。
「ニュース(情報)はネットで見るから新聞(テレビのニュースも)などいらない」と言う話を聞くことが増えているのだが、前にも書いたように、ネットで見られるニュースは極めて限られたものでしかなく、更には「内容は興味本位の偏ったもの」が中心になり、私が書くブログの材料には殆ど役に立たない。
私にとって、新聞は「主食」であり、NHKの放送は「肉や野菜などの副菜」と言うことになり、民放やネットは「お菓子や果物などのデザート」と言うことになるだろう。
今や、「主食はおろか、副菜もろくに食べずにデザートばかりを食べている」と言う偏った生活(ニュースばかりでなく、現実の食生活でも)をしていれば、いずれは「生活習慣病」に犯されるのは目に見えている。
過去に何度も書いているのだが、「情報化社会」と持て囃されていたものがが「情報過社会」になり、今や「情報・禍・社会」になろうとしている。
「便利さの裏に潜む危うさ」と言うもので、かつて「テレビは見る人を白痴化させる」と言われていたが、ネットはそれを更に加速させるのではないだろうか?。
「苦あれば楽あり」と言う言葉が存在するように、「楽あれば苦あり」と言う言葉も存在することを忘れてはいないだろうか?。