クリスマスです。
残念でしたが、今年も自宅でのクリスマス礼拝とさせていただきました。
早くコロナが治まって、教会堂で、しっかりと讃美歌を歌い主の聖誕を喜び合いたいと願っています。
帰天なされて8年以上となる井上洋治神父さまの「ことば」を懐かしく思い起こしていたクリスマスでした。
《十二月二十五日のクリスマスといえば、今では誰でも、師イエスの誕生の祝日だということは知っているだろう。
師イエスの誕生について『ルカによる福音書』には、幼子イエスは、泊まる宿がなかったため、生まれたとき飼い葉桶に寝かされていたと記されている。
これらの「誕生物語」は、私たちの想像をいろいろとかきたててくれる美しい物語であることは間違いないが、これらを歴史的事実として受け止める必要はないであろう。
多くの聖書学者たちの言うように、師イエスはナザレの村でお生まれになり、お育ちになったのだと考える方が自然であると思う。
・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・
宮澤賢治の作品のなかに、『鹿(しし)踊りのはじまり』という美しい物語がある。
銀色の穂をだしたすすきに囲まれた苔の野原で、夕陽を浴びながら、六匹の鹿が、栃のだんごと置き忘れた手拭いをかこんで、きれいな鹿踊りを披露するという幻想的な透明感にみちたすばらしい物語であるが、賢治はこの物語の最後を次の様な言葉でしめくくっている。
「苔の野原の夕陽の中で、わたしは このはなしを すきとほった秋の風から聞いたのです」》と。
そして、井上神父さまは、続け記しています。
《秋の風から聞いた物語りだと賢治が言っていても、それはテープレコーダーで録音できたなどというものでないことは明らかです。
「イエスの誕生物語」も、科学的な事実かどうかと考えるよりも、まず、これらの物語が語りかけてくる深い真実をこそ私たちは受け取るべきです》と。
《身重の妻マリアを連れて泊まる部屋もなく、止むをえず家畜小屋に泊まって、イエスをマリアが産んだという物語は、当時、家畜小屋は家畜が逃げ出さないために、当然客の監視下におかれていたはずであり、それらのことを考えあわせてみれば、家畜小屋での出産ということは、ヨセフにとってもマリアにとっても、この上ない苦痛であり屈辱であったと思われるのである》
《だからこそ、この物語の作家(福音記者)は、主イエスが、家畜小屋から十字架の上まで、私たちの苦悩と屈辱と孤独とを、共に歩んで下さっている方なのだという信仰告白が示されているのではなかろうか》
と、井上神父さまは記しています。
(井上洋治著作選集「わが師イエスの生涯」第一章から要約抜粋)
私も、
『天には み栄え、地には平和を』
と祈ります
残念でしたが、今年も自宅でのクリスマス礼拝とさせていただきました。
早くコロナが治まって、教会堂で、しっかりと讃美歌を歌い主の聖誕を喜び合いたいと願っています。
帰天なされて8年以上となる井上洋治神父さまの「ことば」を懐かしく思い起こしていたクリスマスでした。
《十二月二十五日のクリスマスといえば、今では誰でも、師イエスの誕生の祝日だということは知っているだろう。
師イエスの誕生について『ルカによる福音書』には、幼子イエスは、泊まる宿がなかったため、生まれたとき飼い葉桶に寝かされていたと記されている。
これらの「誕生物語」は、私たちの想像をいろいろとかきたててくれる美しい物語であることは間違いないが、これらを歴史的事実として受け止める必要はないであろう。
多くの聖書学者たちの言うように、師イエスはナザレの村でお生まれになり、お育ちになったのだと考える方が自然であると思う。
・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・
宮澤賢治の作品のなかに、『鹿(しし)踊りのはじまり』という美しい物語がある。
銀色の穂をだしたすすきに囲まれた苔の野原で、夕陽を浴びながら、六匹の鹿が、栃のだんごと置き忘れた手拭いをかこんで、きれいな鹿踊りを披露するという幻想的な透明感にみちたすばらしい物語であるが、賢治はこの物語の最後を次の様な言葉でしめくくっている。
「苔の野原の夕陽の中で、わたしは このはなしを すきとほった秋の風から聞いたのです」》と。
そして、井上神父さまは、続け記しています。
《秋の風から聞いた物語りだと賢治が言っていても、それはテープレコーダーで録音できたなどというものでないことは明らかです。
「イエスの誕生物語」も、科学的な事実かどうかと考えるよりも、まず、これらの物語が語りかけてくる深い真実をこそ私たちは受け取るべきです》と。
《身重の妻マリアを連れて泊まる部屋もなく、止むをえず家畜小屋に泊まって、イエスをマリアが産んだという物語は、当時、家畜小屋は家畜が逃げ出さないために、当然客の監視下におかれていたはずであり、それらのことを考えあわせてみれば、家畜小屋での出産ということは、ヨセフにとってもマリアにとっても、この上ない苦痛であり屈辱であったと思われるのである》
《だからこそ、この物語の作家(福音記者)は、主イエスが、家畜小屋から十字架の上まで、私たちの苦悩と屈辱と孤独とを、共に歩んで下さっている方なのだという信仰告白が示されているのではなかろうか》
と、井上神父さまは記しています。
(井上洋治著作選集「わが師イエスの生涯」第一章から要約抜粋)
私も、
『天には み栄え、地には平和を』
と祈ります