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blogギター小僧の径

ギター小僧の私生活

田舎の葬儀

2002年11月24日 | 想い
23日の土曜日の朝、新宿で8:00にお袋の妹を乗せ、お袋と弟の4人で飛騨高山に向けて出発。首都高・中央道ともに順調。松本ICで下り、安房峠に向かう。安房トンネルが平成10年に開通したため便利になった。つまりは今まで「S」だった道が「$」のように真ん中一本抜けるようになった。クルマに弱い叔母のためS字はゆるく進んだ。それでも4時間ほどで「平湯温泉」着いた。そこから数分のところが上宝村永倉、お袋の姉の嫁ぎ先。
 

着いたらすぐに布団に寝かされている故人の顔を拝んだ。はっきりいってショックだった。お袋とてそうだったに違いない。とても見れたもんじゃない。すい臓ガン。黄疸が出て顔が茶色に変色していた。実の娘も「お父さんの顔気持ち悪い」と入院中からもらしていたという。はっきりいって、人の顔じゃなかった。特殊メイクの幽霊のようだった。とても苦しんだようで歯が食いしばっていたのがそれを助長していた。もう30を越えている身なのでずいぶん死顔を拝んだが、こんな顔は見たことがない。体格のいい53歳の従兄弟はまるでミイラのようにやせ細っていた。

昨日も書いたが、焼いてから通夜が執り行われる。14時に焼き場に搬送するために、13時ごろ納棺した。2女1男の子たちは泣き叫んでいた。特に次女は父親にしがみつき皆に押さえ込まれるという一幕もあった。

ここで、この地方の葬儀の手順を紹介しょう。焼いてから通夜が行われる。驚いたのは東京では壷の中にちゃんと入りきるように焼くのが普通だが、田舎ではかなり元がわかるくらいの軽焼きなのだ。当然壷の中には入りきらなくて、残りは山のそれなりの場所に埋葬というか捨ててしまうのだという。遺族にとってみれば、亡骸が分断されてしまうので、嫌な気分ではないだろうかと感じたが、誰もそれに異を唱える人はいなかった。残った骨を後にして焼き場を後にした。

今回の場合、19時から1時間ほど坊さんの読経があった。翌日、告別式がある。通常だと朝10時ごろから始め、初七日も済ませてしまう。しかし今回は坊さんの都合で、告別式は14時からになってしまったため形式通り、死んだ日から7日目に初七日をするという。田舎の葬儀はほとんどその内で済ませてしまう。都会のように一切合切業者に任せてしまう場合もあるようなのだが、形式通りに進める業者とやり方が違うと怒る長老との間でぶつかり合うことが多いのだという。何ていうお経なのかわからないのだが、あるお経に関しては40歳以上の人は唱えることができる。坊さんの読経に合わせて声を出している人の姿をよく目にした。

土曜日は近くの民宿にお袋3姉妹と故人の長女の舅姑、そしてぼくの弟と泊まった。お袋は4姉妹の3番目、20年以上前に2番目が亡くなっている。たいした民宿じゃなかったが、若き大黒柱をなくして暗い家にいるよりは数段マシだった。
 

翌日曜日は寺に12時に行き14時から始まる告別式の準備を手伝った。具体的にどういう存在なのかわからないが「組」という組織がある。恐らくそののコミュニティーなのだが、その「組の衆」たちがいろいろと世話を焼いてくれる。なので初七日の日は「組の衆」をおおいにもてなすのだという。葬儀では故人が郵便局員だったこともあり局の偉いさん2人の「弔辞」の言葉があった。そして喪主長男も「弔辞」を述べた。

その後は食事が用意されていて、お清めをするのだが、ぼくたちはそのまま帰ることにした。帰りは多少渋滞があったもののいい感じで帰れた。合掌────。
コメント
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