一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ソーシャル・ネットワーク』

2011-02-08 | キネマ

(ネタバレ注意)






Facebook起業の内幕映画としてだけでなく、エリート大学生の青春映画でもあります。


起業が爆発的な成功をおさめるには、タイミングとスピードとそのときに必要な能力を持った人間がきっちりそろうことが必要で、逆にそれらがそろうことがいかに稀なものかが。

あとから振り返ってみれば、最初の1000ドルとその後の活動資金を出した友人のエドゥアルドがいなければ何も始まらなかっただろうし、ナップスターの創業者ショーン・パーカーの口八丁がなければ急拡大もなかったわけですが、結果的に企業が大きくなればなるほど、最後まで乗り損ねたり切り捨てられた人たちとの軋轢も増えることになります。

2つの訴訟の証人尋問のシーンが過去とフラッシュバックしながら描かれますが、「そこまでやる必要があったのか」と「そうしなかったら今があったか」(=訴訟になるほどの成功を収めたか)、どうするのが正解だったのかを考えさせられます。


映画のもう一つの見所が主人公であるFacebook創業者のザッカーバーグの性格の描かれ方。
特に冒頭のガールフレンドとの会話のシーンが秀逸。

頭の回転の速さとプライドとエリート意識とコンプレックスと上昇志向と強迫観念のないまぜになった相手の話を聞かずに何かにせかされるように早口でまくし立てる主人公と、戸惑いながらも会話を成立させようとする(途中で"F*ck"といいかけてFだけで飲み込むあたりとかに育ちのよさが見えます)「アメリカの普通の優秀な大学生」の典型のようなガールフレンドが喧嘩別れに至るまでの長回しで主人公の性格を一気に浮き彫りにします。

米国の大学教員をやっている友人の話によると、イェールやハーバードに入るには、高校まで(極端な話小学校から)オールAでなおかつクラブ活動やボランティアにも取り組む「完全無欠」な生徒なうえに何か一つ突出している必要があるそうで、したがってそういうトップクラスの大学を目指す連中は高校でも成績にむちゃくちゃこだわるそうです。
(その点入試一発勝負の日本の方が楽だとか。)
また、入ったら入ったでエスタブリッシュメントの子女を中心にした学生クラブとか運動部のヒエラルキーや競争もなかなか激しいそうです。

プログラミングの才能はあるものの、家柄がいいわけでもスポーツ万能なわけでもイケメンなわけでもない単なるコンピューターオタクだった主人公の自己アピール・自己実現の方法としてみるとfacebookを起業するのは自然だったのかもしれません。

映画はある意味公平に、最初にfacebookのアイデアを持ちかけたとして主人公を訴えたエリート一族でボート部の花形選手の双子のエリート臭や、共同創業者でこれも主人公を訴えたエドゥアルドの「普通」で殻を破れないところ(ハーバードのクラブへの入会を目指したりFacebookインターンシップに行こうとしたり)なども描いています。



登場人物や物事の展開のいろんなところに感情移入しながら楽しむことができました。


PS
ところで、2つの訴訟はいずれも守秘義務条項つきで和解になったと映画の最後にも触れていましたが、そうなると映画が事実に反すると名誉毀損などで訴えようとしても守秘義務に制約されるので映画側は漁夫の利を得ている面があるのでしょうか。

コメント
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